日章丸事件 最終囘(皇紀弐千六百七十七年一月三十日)

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 私は最初は、出光興産㈱の就職面接を受ける氣はありませんでした。親族がいた會社には、どうも抵抗があつたのです。でも、どういふ會社かは知りたかつたので、面接を受けに行きました。出光興産㈱は、その前々年前1,500億円の赤字を出してゐました(爲替差損で)。

 なのに訪問すると、會社は活氣にあふれてゐました。同時にS銀行も就職面接は受けてゐましたが、S銀行の面接前になると先輩から、「〇〇は聞くな」とか云はれました。でも、出光興産㈱では、人事の人から積極的に〇〇の話しをしてくださいました。自由闊達な雰囲氣に魅せられた私は、出光興産㈱から内定をいただき、入社する決意をしました。

 母は、とても喜んでくれました。「あのね、出光はね、残業すると天丼が食べられるのよ」なんて(笑)。母がいたころは、まだまだ、日本が貧しい時です。残業飯の天丼は、さぞかし、おいしかつたのでせう。

 母の葬儀には、大和丈夫出光石油化學社長が來てくださいました。出光の超大物です。母はよく大和さんに電話をしてゐました。同僚が家に遊びに來てくれることなどを連絡してゐたのでせう。

 私の上司は、びつくりです。「寳德、なんで、大和さんが、お前のお母さんの葬儀に來るんだ」と。

 今年、九十歳になる父が、私たちにつなぎたいことを手紙に書きまくつてゐます。命を懸けて愛した母が關與した、世紀の大偉業 日章丸事件のことを紹介してゐます。
 のち、汎子は、病を得て身体障碍者になったが、日章丸が決死の船出をしたときのプロジェクトに参加した乙女たちが「ぼんちゃん(汎ちゃん)は体が不自由だから」と毎年秋に我が家に集まつて、〇〇ちゃん、▽▽ちゃん、などと呼びあいながら、私の酒蔵の酒を飲んでゐた。私は別室で待機して終わると柏駅まで車で皆さんを送った。

 湯浅八重子さん(八重ちゃん)はいつも酔っぱらって「船橋まで送ってくれ」と駄々をこねた。船橋~取手間は船取線という国道があり便利だが、私はウンと言わずに柏駅で降りてもらっていた。

 偶然の機会に日章丸船長・新田辰夫ご夫妻が仲人をつとめた人に会ったことがある。

 私は北朝鮮で生まれ育ったので、敗戦の日に學校はなくなり同窓会だけがあるという境遇に置かれた。私は日本海側の元山(げんざん ウォンサン) 咸興(かんこう ハムフン) 興南(こうなん フンナム)の学校にいたが、他の学校の同窓会にも招かれていて、黄海側の平嬢(へいじょう ピョンヤン)山手小学校同窓会の「平常山手会」に来賓として出席していた。日章丸の話しをしていたら、新田船長をよく知る人がいて、仲人さんだというではないか。こんな偶然があるのだ。

 汎子が没したとき、出光石油化学㈱社長 大和丈夫氏が弔問に見えて、毎年我が家に集まってくれていた乙女たちと直会が終わるまで居てくださった。大和社長は日章丸がイランに派遣されたときの出光興産㈱の潤滑油課長で汎子の上司だった。

をはり

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このページは、宝徳 健が2017年1月30日 16:22に書いたブログ記事です。

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