命の手紙 3(皇紀弐千六百七十七年四月十日)

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 父は、私たち姉・弟・妹にとつて、ものすごく怖い存在で、「好きか」と聞かれたら「う~ん」といふ感じでした(笑)

 でも、尊敬してゐました。母の子供たちに對する教育ももちろんあります。「お父さん」に對して、失礼なことを言つたりしたりしたら、ものすごく怒られました。

 それだけではないですね。何か、尊厳に満ちたあの存在。「好きではないのに尊敬している」。今の親や上司に欠けてゐることだと思ひます。これがキャプテンシーなのでせうね。

 母の葬式の時、父は云ひました。「秋武(母の實家)の父と母には、實の子供のやうに大切にしてもらひました。それなのに、今囘は、汎子(母)にとんでもないことをしでかしてしまひました。みなさん、申し譯ございません」と。姉は「あの言葉を聞いて、すべてが許せた」と。

 私が硬式テニスでインターハイに出場したとき、親友のSZ君が、試合の様子を寫眞におさめてくれました。その寫眞を當時、單軆赴任中だつた、父に、母が送りました。

 後から知つたことですが、その寫眞を臺紙に貼り、社内で部下の人たちに、「俺の息子だ」と自慢してゐたさうです。決して、當時者である私たちには見せない愛情。今の、私たちには出来ないことですね。

 私には、たつた一言の手紙が母を通して届きました。「キャプテン寳德、よくやつた」と。この時のうれしさはいまだに忘れません。

 前囘の手紙では、父はさらつと書いてゐました。息子である私の目から見ても「大した男」である父は、退職後北九州の小さな鐵工所に轉職しました。つらくてつらくてたまらなかつたさうです(仕事のレベル・人間關係など)。母に「一家心中してくれ」と云ひたくなつたさうです。

 菱光産業に転職して初めての營業職についたとき、どうしてよいかわからない父は、道路の側道に一日中立ち、前を走る營業車に書かれてゐる社名と電話番號をかたつぱしからメモしてアポを取り、營業に赴いたさうです。

 私たちと昭和一桁とは、レベルが違ひます。私たちはすぐに愚痴を云ふ。自分で手にしてゐるのに、「與へられた」と勘違ひしてゐる環境に、すぐに不平不満を云ひます。

 さて、父が、自分の幼少時代を書き送つてきました。
(佳男の子供時代)
 宝徳佳男の子供のころのお話をしよう。

 ずっと級長(今の学級委員?)だったが、勉強ができただけで、リーダー的性格は全くなかった。

 1年1学期の級長は上田昭というお金持ちの家の子供だった。1年生の級長を選ぶときは各々の実力がわからないので、有名人の子弟を選ぶのはやむを得ない点があるが、誰も考えないことが起こった。

 宝徳義一(30歳)(私の祖父)がといふお父さんが、「ななぜ宝徳佳男が級長でないのだ」と学校に捻じ込んだらしい。

 佳男はめでたく2学期からずっと級長だったが、いくら捻じ込まれても、この子はリーダー的性格がないとなぜ断らなかったのだろうか。  つづく

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このページは、宝徳 健が2017年4月10日 02:38に書いたブログ記事です。

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