働き方改革?(皇紀弐千六百七十六年十二月二十七日)

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 つい最近も書きましたが、敗戰後、GHQは、我が國をだめにしようとして、社會主義政策を導入しました。それまで我が國には、權利・義務の發想などありませんでした。

 スイスの大使は、偉さうに輕井沢に滞在しました。商売敵である、我が國の時計メーカーを壊滅させやうと、マッカーサーに頼んで、勞働組合を作らせました。我が國に、「勞働者」といふ、いやらし~い、ものが誕生した瞬間です。

 我が国は「はたらく」ことに尊嚴がありましたが、それが、權利と義務に變はつてしまひました。

 これから私が述べることは、マスコミや多くの國民が大好きなPC(ポリティカル・コレクトネス:政治的妥當性)に大きく反しますので、「何を言つてゐるんだ、こいつは」と思はれるかもしれません。でも、かつての美しい我が國では當たりまえのことでした。
 個性とは、自由気ままにふるまうことではありません。自分が属するもの(会社、学校、家族など)の中で、自分が果たす使命を見つけ、それをコツコツ果たしていくことです。

 そのコツコツ果たしていく「自分の仕事の仕方」で、人からとやかく云はれたら、とてもぢやあありませんが、使命など果たせません。有効な情報は指導なら役に立ちますが、「働き方改革」などと云はれたくありません。餘計なお世話です。

 毎日のやうに、電通がどうのこうのとか、残業がどうのこうのとか報道されてゐます。我が國はどうなつていくのでせうか?

 私はサラリーマン時代も含めて、仕事を「会社の仕事」と思つたことがありません。「自分の仕事」です。残業手當なんかの權利を振りかざすから、仕事が「会社の仕事」になります。「やつてあげてゐる」と。よほどの肉體的な重労働でなければ、過勞死はあり得ません。もし、きつかったら、休めばいい。

 すべて、「勞働者」といふ、いやらし~い、言葉の權利・義務發想が、自分の精神をきつくしてゐるだけです。「やらされ意識」が。

 はたらくとは「はた(周り)」を「らく(樂)」にする最高の行いなのです。そこに「勞働」や「權利・義務」發想はありません。ましてや、残業などと云ふなんか、人から言はれて嫌々やるような表現もありません。

 働き方改革? 餘計なお世話です。

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このページは、宝徳 健が2016年12月27日 11:58に書いたブログ記事です。

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