日本語の學習(皇紀弐千六百七十七年一月五日 四)

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 「勉強」から「學習」に變へました。「學」は「まねる」→「なめぶ」→「まなぶ」と變化しました。だから人から教へてもらふ。それだけではだめです。「習」は象形文字です。表意文字。表音文字である英語や、今の支那や朝鮮の言葉ではありません。


 「習」の「白」は鳥の胴體です。「羽」はわかりますね。「習」とは、ひな鳥が親鳥の飛ぶ姿をみて、自分も飛びたいなあ、と思い、羽をばたばた何度も何度も繰り返す、といふ意味です。だから「習」は、「同じことを何度も何度も繰り返す」といふ意味です。

 「學んだこと」を「何度も何度も繰り返して」自分のものにする。これが學習の意味です。勉強とは違ひます。

 ちなみに「習慣」の「慣」の「りっしんべん」は、「心」です。心には、いろいろな欲望があつて、「ころころころころ欲望を變へてしまふ」から「こころ」と云ひます。「毋:かん」は、昔の銭挿です。穴があいてゐるお金が、バラバラにならないやうに一つにまとめたのが「毋」です。お金なので下に「貝」がついてゐます。

 「習慣」の意味は、「ころころころころ變はる心を變はらないやうに、ひとつのまとめ、何度の何度も同じことを繰り返す」です。素敵でしょ?

 「習慣」の同義語が「躾(しつけ)」です。「ころころコロコロ變はる心を變はらないやうに、ひとつにまとめ、何度も何度も同じことを繰り返す」と「身が美しく」なるのです。

 だから「躾」は大切です。幼い時や未熟な時には、まず、この躾です。「しつけ」を丁寧語にしてください。「おしつけ」です。「おしつけ」でいいんです(相手が自立してきたのにいつまでもおしつけをやつては人は育ちませんが)。

 漢字の字源は素敵ですね。
 おつと、また前置きか・・・・

 三島由紀夫の文学的遺書である「小説とは何か」で、本當の日本語を學習してゐます。
 車を運轉しながら交通情報や、プロ野球の放送をきくなどの例を除けば、全般的に、ラヂオの與へるものは、人を激發させるよりも慰め安らげるのものが多くなつた。朗讀や。何よりも音樂が重んじられ、テレビのやうに視覺を奪はれないから、いはゆるムードをかもし出すのにより好適である。カー・ラヂオは現代の戀愛の不可解な伴走者の役割を占めてゐる。それはあたかも十九世紀ヨーロツパで、レストランのテーブルの間をめぐり歩く樂師の役をチツプ抜きで演じてゐるのである。

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このページは、宝徳 健が2017年1月 5日 04:38に書いたブログ記事です。

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