日章丸事件 3(皇紀弐千六百七十七年一月廿參日)

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 かつての出光興産㈱は、大胆かつ最新の仕事の進め方をしてゐました。一中小企業が、こんな大偉業を成し遂げるなど、今の日本では考えられません。

 日章丸が神戸港を出港する前の日、佐三店主は、石清水八幡に行き、身を清め、白羽の矢を受け取りました。

 佐三店主は、翌日、神戸港で日章丸を見送りました。白羽の矢を手に日章丸に上がり、祀つてある宗像大社にその白羽の矢を捧げました。この命がけの事業に従業員に命を懸けさせるのではなく、自分が行けないのかと、血涙をおしこらえたさうです。

 今年九十になる父の命を込めた文章を引き續きご覧ください。
 連合国軍による占領下の日本において連合国軍総司令部によって義務付けられていた正午報告(一報告)に罰則規定が無いことを見つけ、それらを行わず、航路も偽装してイギリス海軍から隠れる形で4月10日イランに到着した。

 英国の軍会を回避し、日章旗を掲げた日章丸が石油を引き取りに来た。イラン国民は狂喜乱舞したという。

 この時点で、世界中のマスメディアに報道され、国際的な事件として認知された。日本においても武装を持たない一民間企業が、当時世界第二の海軍力を誇っていたイギリス海軍に「喧嘩を売った事件」として報道され、連日日本では新聞の一面記事で報道された。

 4月15日急ぎ石油を積んだ日章丸は国際世論が注目する中、イランのアーバーダーン港を出港。浅瀬や機雷などを突破、イギリス海軍の裏をかき回避する事に成功し、海上封鎖を突破して5月9日9時に川崎港に到着した。  つづく

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このページは、宝徳 健が2017年1月23日 09:37に書いたブログ記事です。

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