日本語の學習(皇紀弐千六百七十七年一月廿四日 四)

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 何歳ぐらいのときだつたかなあ。福田恒存先生の本を讀みました。頭を棒で思いつきり毆られた感じがしました。「なんだ、俺が習つたきたのは、日本語ではなかつたんだ」と。

 私たちは、時代を髙めてつなぐ義務があります。日本男児の唯一の使命は、「すめらぎの弥栄を護る」ことです。これは、何も天皇家を護ることだけではありません。人間社會の奇跡 日本の在り方を護ることです。そこには家族も友人も大切な人はみんな含まれますし、そして、我が國の先輩たちが營々と築いてきたものもあります。

 男はそれしかできないんです。女が男に女を求める今の時代、男がどんどん情けなくなります。男女は區別しないと、世の中がおかしくなります。昔の婦道はそれを知つてゐました。だから、自分たちの仕事を男にさせるなんて、愚かなことは要求しませんでした。もつと嚴しい仕事に男を放り込んで鍛へたのです。「女の腐つたのみたいになりなさんな」と叱りながら。

 せめて日本語ぐらいは取り戻しませう。

 三島由紀夫の文學的遺書である「小説とは何か」で本來の日本語を學習してゐます。
 しかし、眞の享受者の數が限らててゐるのは、その本質に根ざすもので、テレビは今まで小説に代償的娯樂を求めてゐた疑似享受者を奪つたにすぎない。

 もともと小説の讀者とは次のやうなものであつた。すなはち、人生經驗が不十分で、しかも人生にガツガツしてゐる、小心臆病な、感受性過度、緊張過度の、分裂症氣質の青年たち。政敵抑壓を理想主義に求める青年たち。あるひは、現實派である限りにおいて夢想的であり、夢想はすべて他人の供給に俟(まつ)つてゐる婦人層。ヒステリカルで、肉體嫌惡症の、しかも甚だ性的に鋭敏な女性たち。何が何だかわからない、自分のことばかり考へてゐる、そして本に書いてあることはみんな自分と關係があると思ひ込む、關係妄想の少女たち。人に手紙を書くときには、自分のことを二三頁書いてからでなくては用件に進まない自我狂の少女たち。

 結核患者。輕度な狂人。それから夥しい變態性慾者。・・・・・

 ・・・・・こんなことを言ふと、人は、小説の讀者を世にも不氣味な集團のやうに想像するだらうが、實はさうではない。

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このページは、宝徳 健が2017年1月24日 04:17に書いたブログ記事です。

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