日本語の學習(皇紀弐千六百七十六年二月十六日 參)

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 三島由紀夫の文學的遺産である「小説とは何か」を讀みながら、ただしい日本語を學習してゐます。
 或る小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免れてゐることであらうか。それと同時に、小説といふものが存在するおかげで、人々は自分の内の反社會性の領域へ幾分か押し出され、そこへ押し出された以上、もちろん無記名ではあるが、リストアップされる義務を負ふことになる。社會秩序の隱密な再編成に同意することになるのである。

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このページは、宝徳 健が2017年2月16日 04:04に書いたブログ記事です。

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