日本語の學習(皇紀弐千六百七十七年三月十一日 四)

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 本日、最後のブログ。焦る。仕事しないと。でも、ブログを書くと仕事のリズムが出來ます。手紙を書くと前の仕事のリズムを消すことができ、すぐに次の仕事のリズムが創れます。讀書? だめ、ずつと讀んでしまひます。

 三島由紀夫の文學的遺書である「小説とは何か」を讀みながら正しい日本語を學習してゐます。
 さて、第一の影響はかなり健全な結果で、小説の藝術的責任は實はここまでだといふことが云へるであらう。何故なら、市場においては、人々は喜々として「不安」をさへ賈ふからである。

 しかし第二の影響のはうは黙過しがたい。なぜならこのはうは、場合によつてはもつと厄介な讀者を培ふからであり、一方、このやうな傾向に陥りやすい讀者の心を収攬するつもりで作られた、似而非(えせ)芸術、すなはち「人生論的小説」「いかに生くかべき小説」といふ短路現象を生みだすからである。

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このページは、宝徳 健が2017年3月11日 10:12に書いたブログ記事です。

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