命の手紙 2(皇紀弐千六百七十七年四月八日)

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 母は、医師のファースト・オピニオンのミスによつて殺されたようなものです。病氣の原因は他にあつたのですが、この經過の中でさらに惡化していきました。

 「このままでは死んでしまふ」といふときに、母は父に、「故郷、福岡で治療したい」と申し出ます。(おそらく)離婚も視野に入れて(本当の原因はそこにあったから。父ではないですよ)。同居していた祖母がびつくりしました。もちろん反對です。そのシーンは覺へてゐます。その時の父の言葉が「家族や子供たちと離れて生活するといふことは自分には考へられない」でした。

 父はとても厳しい人でした。私よりも公を大切にする人でした。臺風が來ると(昔の家はみんなさうだつたが)、雨戸に板を打ち付け、雨戸が飛ばないやうにします。たいていの家はそれは、父親の仕事でした。でも我が家は、父が「會社が心配だ」と會社に行つてしまひます。我が家では、祖母と母がやつてゐました。 子供に對しても、子供たちが「自分たちは父から嫌われてゐるのか」と思ふぐらいでした。それに私は父と遊んでもらつた經驗がほとんどありません(當時は當たり前のことだが)。

 でも、そんな父が家族を愛してゐることを實感したことが2度ありました。

 何歳の時かなあ、7歳ぐらい? 父の横で寢てゐるとき、父が寢てゐる私の方に向きを變へました。寢つけなくて寢たふりをしてゐた私は、「まだ寢てないのか!と、怒られる」と、必死に、さらに寢たふりをしました。すると、父が私の頭をなでてくれました(父は私が寢てゐると思つてゐる)。「えっ?父さんは、僕のことが嫌いじゃないんだ」ととてもうれしくなりました。

 この時と、そして、母の時に家族に對する愛情を感じた時がその2度です。

 百三十歳まで生きる。さう公言してはばからなかつた父が、先日、體調を崩したとき、「もうだめかもしれない」といふ弱音をはきました。初めて聞きました。今は、父が、私及び親族に、手紙を書きまくつてゐます。この命の手紙をブログで遺します(残しますではない)。

 昨日の續きです。
 結局、義兄(母の兄)・秋武舜一の仕事を手伝うというウソを言い退職して、北九州市の小さな鉄工所で働きました。その工場から派遣され、3か月間、水島工業地帯(岡山県倉敷市)で、地上40メートルの屋上に機械設置する工事の現場監督で働いて帰ってきたとき、菱光産業㈱(いま、三菱マテリアルトレーティング㈱)から、九州では三菱金属製品が売れない。営業職で福岡に来ないか、身元は調べてある。当方は採用すると決めてあると福岡で常務(営業本部長)の面接を受け採用が決まりました。

 営業には全く自身がなかったが、1年3か月後に「三菱金属製品の販売に貢献があった」と、本社で表彰されました。

 福岡営業所で6年經過。筆頭部である本社金属部次長への転勤の話が出たときは「まさか」と耳を疑いました。

 素人が6年で本社に来るとは何事だ「宝徳クラスの男は東京にいくらでもいる」との抵抗があり、発令が遅れに遅れ、恒例のバンザイの見送りもなく私は夜行寝台列車で赴任しました。

 汎子は九大病院と電話をつなぎ、緊急体制を摂り「クスリを抜く」治療に入っていました。薬を抜くときは苦しいのだそうです。

 身内から批判が出ました。「宝徳さんは自分の出世のためなら、奥さんはどうなってもいいのか」と・・。

 秋武舜一が、「宝徳行け。お前は福岡でチョロチョロしている男ではない。汎子はオレが見てやる」と助け船を出してくれました。1年3か月後、家族を取り纏めました。

 振り返ると、自分の力だけではない。その場その場で、多くの方々の力添えがあり生きてきました。中でも、秋武一族のお世話になりっぱなしでここまで来たと感謝してゐます。有難うございます。

 母のことはをはり。

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このページは、宝徳 健が2017年4月 8日 02:21に書いたブログ記事です。

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