命の手紙 5(皇紀弐千六百七十七年四月十四日)

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 父に子供のころの振り返りの續きです。今日、出てくる中學校とは、𦾔(旧)制中學です。

 このころ、𦾔生中學に行く生徒は、全体の3割もいなかつたさうです。

 父は頭がいいといふか、努力家です。一度決めたらやり抜くすごさがあります。今も(九十歳)、英單語を一日十個暗記してゐるさうです。入院をしたら、「退院をしたらすぐに歩く」と寢ていても、腿上げを100囘ぐらいしてゐます。

 旅順工科大學に行きたかつたと聞いてゐます。戰爭でその夢も遂げられませんでしたが(志願兵)。
 同窓生はみな、お前は中学校(旧制)からがらりと変わり、みんなのリーダーになっていったという。なるほど、学力試験のある旧制中学校に一番で入るほどの実力があり、あの当時の軍事教練でも常に隊長を務めたほどの実力?があったが、本人に言わせれば学問が私を援けてくれていただけの佳男の借りの姿だった。

 戦後、労働組合にのめり込んだ。誰よりも勉強もしたが、最初の1年間は議事録に宝徳の名前がないほどの"内気"な存在だった。

 今の性格は聞かれたら「頑固」と答えるほどの「意地っ張り」が目立つ。常に先頭になって意見を言い、断じてひかない男になったのは、労働組合が原点であると思っている。

 法律が好きだ。マンションは、建物の区分所有等に関する法律(区分所有法・マンション法)ですべて律している。最初は全くわからなかったが、今、法律は宝徳に聞かなければならない存在になっている。

(次囘からは祖父です)

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このページは、宝徳 健が2017年4月14日 01:41に書いたブログ記事です。

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