命の手紙 6(皇紀弐千六百七十七年四月二十二日)

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 祖父の話が始まります。父はシベリア抑留で帰つてきませんでしたので、私たち姉弟妹は、逢つたことがありません。部屋に寫眞だけ飾つてありました。にらみつけられてゐるやうでとても怖かつたことを覺へてゐます。四十代半ばに見えた祖父の寫眞ですが、なんと三十歳の時のものなのですね。

 昔の男は、成熟していたのでせう。私たちはガキです。あ~あ、世の中が退化してゐます。
■父、宝徳義一(ぎいち)のこと
※ヨシカズさんと呼ぶ人もいる。

 昔はみな正座して卓袱台(ちゃぶだい)を囲んだ。旧制中学合格の日の夕食時。父に「胡坐(あぐら)をかいていい」と免許皆伝を許された。

 父は上手ではなかったがバイオリンを弾いた。女学生が習いに来ていたが、ギコギコ鳴るだけだった。写真機は自前。写すと押入れ(暗室)に入り込み、現像・焼付・引き伸ばしをするモダンな面があった。

 いあ唯一残っている父の自画像は、30歳のとき、自分の写真機で自分が撮り、自分でDPEしたものだ。

 父は酒が強かった。ある年の新年宴会(あの頃は「新年会」とはいわない)で頃で山高帽子(やまたかぼうし)が凹んだ。山高帽子の凹みは内側から金槌で叩いても元に戻らなかった。材料は??

「山髙帽子 写真」の画像検索結果

 唄は♪佐渡おけさか、白頭山節(白頭山は挑戦と満州国の国境にある山)

♪白頭み山に積りし雪は、溶けて流れてアリラレの、ああ、可愛い乙女の化粧の水♪

 アリラレはどういう意味かわからない。

 宝徳義一は41歳で無念の死を遂げた。

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このページは、宝徳 健が2017年4月22日 01:40に書いたブログ記事です。

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