和歌と國造り 2(皇紀弐千六百七十七年四月二十五日 六)

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 明朝はブログが書けないと思ふので。

 最近の私の和歌

 しらすといふ 國體築きし 皇(すめらぎ)が 坐(ましま)す國に 櫻花咲く

 梅に桃 櫻に藤と つなぎしに 忘れたならじは 木蓮の花

 こんにちは ことばがおはらぬ そのうちに 抱っこをせがむ 幼き笑顔

 田植ゑ待つ はられた水に 陽が映える 斎庭の稻穂 とはにかがやく

 嶺南の 山も雪解け 緑映え すべてが芽吹く 春のおとづれ

 水はられ 田植ゑ待つ多の すがすがしさ 天壌無窮の しはわせかみしめ

 櫻残る 山の緑に 映えながら はられた田水に 姿を映す

 薄紅と 黄色緑の 合唱に 我も我もと 八重の共演

 へたくそだなあ。 でも、和歌は毎日一首以上は詠めてゐます。問題は、讀書とブログと手紙です。

  さて、大化の改新と云ふ一大政治事件において、我が國のリーダーたちはどのやうな難局を乘り切ったのでせうか。
 それまでの體制を換えるときには、國でも企業でもそれなりのあつれきが生じます。そのあつれきを「しかたがない」と判斷するか「壊しても進む」かどうかを決めるのがリーダーです。經營者です。

山川に 鴛鴦(おし)二つ 居てたぐひよく たぐへる妹を 誰か率(ゐ)にけむ

もと毎に 花は咲けども 何とかも 愛(うつく)し妹が また咲き出來(でこ)ぬ

 川原史満(かわらのふひとみつ)と云ふ人が、中大兄皇子に代わつて詠んだ歌です。

 大化の改新の三月後に 古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)の謀反があり、中大兄皇子によつて鎮壓されました。この二人はひとしく舒明天皇を父としながら、前者は蘇我馬子のむすめ 法堤郎女(ほてのいらつめ)を母とし、中大兄皇子は京玉天皇を母としています。つまり、蘇我勢力の反亂だつたのです。

 續いて六四九年(孝徳天皇大化五年)、大化の改新に中臣鎌足と共に枢機に參画した右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだのいしかわまろ)が蘇我日向(ひむか)の讒言によつて中大兄皇子に討滅されました。 この忠臣至誠の重臣は自經したのです。改心後の政局の中心であり、しかもその娘二人までが、中大兄皇子の嬪(ひめ)として迎へられてゐることを考えれば、これは本當に讒言だつたのでせう。

 その愛妃の一人造媛(みやつこひめ)は、父の死を傷心して死にました。

 中大兄皇子は悲しくて和歌を詠むどころではありません。そのために、代わつて詠まれた歌が先ほどのものです。

 さあ、次は有間皇子です。

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このページは、宝徳 健が2017年4月25日 21:51に書いたブログ記事です。

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