日本語の學習(皇紀弐千六百七十七年四月二十五日 九)

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二上(ふたがみ)の 峰(お)の上(うへ)の繁に 隱(こも)りしに そのほととぎす 待てど來鳴かず


 二上山の峰の上に繁み隱れてゐるそのほとどぎすは、いくら待っても來て鳴かないことだ。大友家持です。彼が赴任先の越中で詠んだ歌です。なので、この二上山は 大阪と奈良の間にある山ではなく、富山県です。関西の二上山と同樣、山頂が二つに割れてゐます。

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 これが関西。
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 これが富山県高岡市。

 では、いつも通り、三島由紀夫の文學的遺書といはれてゐる「小説とは何か」で正しい日本語を學習していきます。

 では、小説家的な才能といふのは、將來もし小説に對する需要が皆無になり、誰一人小説にふりむく人がいなくなつた場合も、空しく小説の生産に精を出すであらうか。そこには何ら經濟社會の需要供給の原則は働いてゐないのであらうか。本當のところ、小説といふ、歴史も浅ければ形式意欲も足りない藝術上の一ジャンルに、はじめから適合した人間が生まれて、豫定調和的に、その人間の才能の開花と讀者の需要が見合ふと云ふ考へは、不自然で變な考へなのである。


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このページは、宝徳 健が2017年4月25日 22:58に書いたブログ記事です。

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