命の手紙 8(皇紀弐千六百七十七年四月二十五日 八)

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 今年のブログ目標は、年730通です。つまり、一日2通。

 ところが 1月52通/62通 2月21通/56通 3月41通/62通 で合計 114通/180通 ▲66通。つまり、1日2通として33日分遅れてゐます。 4月も25日で今のところ39通/50通です。絶對に、GWで追いつきます。

 本は今のところ65冊だから200冊/年ペースです。手紙が全然ダメ。とにかくなんもかんもGWで取り返すけん。

 さて、今年九十歳になる父が、何かを私たちに遺そうと、手紙を送つてきます。寂しいのでせうね。今日も、「今日はおじいちゃんの誕生日ですね」とメールをしたら、「この思いをどこに向けたらいいのか」といふ返事が返つてきました。十九歳で父を失い、一家の面倒を敗戰の荒廃のなかでみなければならなかつたのはどんなに大變かだったか、私たちにはうかがひ知ることができません。戰爭はしてはいけないのではない。負けてはいけないのです。よく「戰爭の記憶を忘れるな」と云ひますが、違ひます「敗戰の記憶です」。 あの戰爭が我が國の侵略戰爭ではないことなど火を観るより明らかですが、指導者が惡るかった。特に、山本五十六と近衛文麿です。この二人が我が國をつぶしたと言っても過言ではありません。なのに、山本五十六など、なぜ、あれだけ持ち上げられるのか。

 さあ、髙めて繋ぐのが私たちの使命です。父が「遺そう」としてゐることは私と息子が引き繼ぎます。

 今日から日韓合同同窓会です。
□日韓合同同窓会 ボクの母校(旧制中学)はない。正確にいうと建物がない。

 戦争が終わり、北朝鮮にあった母校は往来が出来なくなってしまった。「朝鮮籍の日本人(今の韓国人)」の同窓生は、170人が北朝鮮から南(韓国)に脱出してきているという。

 チリチリバラバラで脱出して日本に帰ってきた私たちは、同窓生を探すのに駆けずり回った。いまもそうだろうが、転居先を探すのに、当時の市町村役場は親切だった。ずいぶん助けられた。

 戦後20年ほどたったある日、ソウル(京城)から電話があった。同級生で同じクラスの姜豪(きょうごう カンハン)からだ。他校の同窓会名簿で宝徳の名前を見つけたという。

 朝鮮関係の各校の同窓会名簿に、関係連絡先として「宝徳佳男の住所と電話番号」を載せてもらっていたのを姜豪が発見したのだ。まさか朝鮮から連絡があるとは、との驚きがあった。 つづく

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このページは、宝徳 健が2017年4月25日 22:37に書いたブログ記事です。

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