日本語の學習(皇紀弐千六百七十七年一月十五日 參)

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 三島由紀夫の文學的遺遺言である「小説とは何か」を讀みながら正しい日本語の學習をしてゐます。

 三島由紀夫はすごいですね。敗戰後、GHQや國内の悲しい勢力が日本語をつぶさうとしてゐるときも、作品は歴史的假名遣ひであり、繁體字です。
 では、ラヂオが動的な機能よりも静的な慰安的機能により傾いてきた現代、ラヂオのもつとも熱心な聽取者は誰であらうか?車の運轉者は、いろんな點ではななだその場かぎりの、不まじめな、不實な聽取者と考へられる理由が十分ある。連續物の内省的な朗讀などに、しんみり、心の底から耳を傾けてくれてゐる人は誰であらうか? 目で見る他人の不幸の面白さに、あさましい好奇心をむき出しにするテレビの視聽者などと違つて、他人の内心の聲のしたたりをしづかに自分の心に受けとめてくれる人は誰であらうか?

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このページは、宝徳 健が2017年1月15日 04:59に書いたブログ記事です。

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