命の手紙 18(皇紀弐千六百七十七年五月七日 弐)

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 普通、男は女房が先に亡くなったらしぼんでしまふものですが、親父は、ガンガン海外旅行に行きまくりました。 今書いている「プラハの春」は、親父がチェコに旅行に行った時のものです。つづきです。
 プラハ市内のガイドはチェコに帰化した日本人でした。土産物店で「ガイドは帰化した日本人だ」というと、「あなたは運がいい。優秀なガイドだ」と讀めていました。

 ガイドは言う。

 この狭い広場に私たちプラハ市民70万人が集まり、ソ連軍の戦車を素手で取り囲みました。ソ連軍が侵攻したとき駅の上にはスターリンの立像がありました。私たちは像にロープをかけてスターリンを引きずり下ろしました。いま、大きなメトロノームが動いているプラハ駅は、チェコの民主化を知らせていつのです。プラハの春から40年、民主主義が根付くまでに20年もかかりましたが、チェコはやっと民主主義国になりました。遠い道のりでした。

つづく

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このページは、宝徳 健が2017年5月 7日 11:41に書いたブログ記事です。

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