教育に關する勅語 7(皇紀弐千六百七十七年五月八日 四)

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 これを書き終はると▲50です。


(明治天皇御製)

述懐:事しあらば 火にも水にも いりなむと 思ふがやがて やまとだましひ

國:人もわれも 道を守りて かはらずば この敷島の 國は動かじ

明治天皇の御製を詠むたびに心が洗われます

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(我が國の恩人 井上毅)


 今囘は、井上毅と横井小楠の第三の論點をみていきます。

第三の論點:交易問題

 開國して世界貿易をやらなければならない、と横井が主張したのに對し、日本は農を本とする國である。ところが、開国して海外のものが入つてくるようになると必然的に商が榮え、必要以上に商が大きくなると、日本は江戸・大阪のようになつてしまうのではないか。と井上は反論しました。

江戸・大阪の町人は勞苦を厭い「奇利末業」を追い、人々は贅沢に慣れ、民情は「遊惰」に流れてゐました。それに對し、熊本は農を本とした國をつくつてゐる上に、道德の亂れもなく、よく治まつてゐました。國を開けば、他國の悪習がどんどん入つてくる。キリスト教も入つてくる。その混亂をどうするのだと、井上は問いました。

 


井上が理想としたのは、仁を理念にした「互譲」による秩序の形成でした。ところが、西洋諸國がやつてゐるのは植民地支配といふ非人道的支配です。そのようなものは「天理」ではありません。井上は、これを指摘しつつ、横井のいう「万國一体、四海兄弟」の説は、西洋諸國が自らの便利を追求しようとしつつ、その自國の利害を追求する放言としていつてゐるものに過ぎないと反論しました。

もちろん、井上は、「鎖國」を守り得ない世界の「勢」(時代の現実)を無視していたわけではありません。その意味では「兵政を革し、水軍を設け、器械を修むる事」という現實にも言及してはいます。 

しかし、あくまでも井上の重点は我が國のアイデンティティをいかに守るか、ということにありました。それが井上の思想を生涯貫く「核」でした。

 江戸時代末期に、イザベラ・バードというイギリス人が我が國を訪れました。イザベラは地方に旅に出ました。驚きの連續でした。「旅館に財布を置いたままにして、三日ほど出かけて歸つて來たら財布は元の位置にそのまま置いてあつた(昔の日本の旅館はふすまと障子でしきられているだけ)」「農民がよく肥えて笑つてゐる」「歐州でも女性の一人旅は馬鹿にされて危險だが、どこに行つてもみんな親切だつた」。そして、「この妖精のような國に歐米の文化を入れていいのだらうか」と疑問に思ひます。我が國の後、朝鮮に行きました。「糞尿にまみれ、これ以上汚い國はないのではないか」と逆の意味で驚きました。次に清に行きました。朝鮮以上に汚かった・・・。

 

 世界で生きていく以上、他國とは付き合わざるを得ないでせう。しかし、今の我が國のように根無し草のような考え方で付き合っては、いいようにやられることは、民主党政権で私たちも経験済みです。


(本文解説のつづきです)

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

 

訳します。

もし國家に重大な事變が起こつたならば、正しい勇氣をもって、すめらぎいやさかのために真心を尽くし、そして、天地が永遠に続くと同じように、限りなく榮へていく我が國の運命を助けなければならない

 

 敗戰後、私たち國民が一番失つてしまつたことです。私は、教育勅語の中で、この箇所を最も愛しています。毎朝、教育勅語を暗唱していますが、この箇所に来ると身が震えてしまひます。

 

 かつて、こんなことがありました。ある人に「もし、他國が我が國に攻めてきて、天皇陛下を捕へたとします。他國の軍隊が「今から、天皇を殺すが、國民の中で、身代わりになるという人間がゐるなら、天皇を殺すのをやめよう」と言つたら、眞つ先、一番最初に手を擧げる」と言ひました。するとその人は「何を馬鹿なことを考へてゐるんだ」と言ひました。

 

 悲しくなりました。「この人は日本人なのか」と一瞬思いましたが、「ああ、敗戰後の教育ではしかたがないか」と思ひ直しました。

 

 私一人いなくなっても、我が國は亡くなりません。でも、「すめあらぎ」がななくなった瞬間に我が國は滅亡します。これほど素晴らしい國のために、私の命が使へるなら、こんな光榮なことはありません。

 

 かつて、小泉元首相が、「はからずも死んでいった兵士たち・・・」という表現を使ひました。びつくりしました。「はからずも死んでいった兵士」など、ゐません。みんな「自分が死ねば、愛する人、家族、國を守ることが出來るんだ」と純粋に思つて戰つたのです。まさに「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の氣持ちで、自らの命を捧げました。


 人間です。死ぬのが怖いのは當たり前です。それを乘り越へた精神が、かつての我が國にはあったのです。小泉元首相のこの發言ほど、英霊たちに失禮な言葉はありません。我が國は、「分け合って餘らせてきた互譲互助の精神を持つた國」でした。それが、いつの間にか「奪ひ合つて足りなくする國」にしてしまいました。英霊たちになんと言つてお詫びしていいか、言葉も見つかりません。


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このページは、宝徳 健が2017年5月 8日 05:26に書いたブログ記事です。

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