和歌と國造り(皇紀弐千六百七十七年五月八日 五)

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 額田王の歌に對する大海人皇子の返歌です。

紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我戀ひめやも

「紫草のやうに、照り映える美しいあなたを憎く思つたら、人妻なのに戀しく思ひませうか」


 さてさて、大變です。天智天皇と大海人皇子の激しい確執が・・・・。


 では、大化の改新に續く我が國の國造り 壬申の亂を見ていきませう。

 有馬皇子の謀反があつた年から四年目、斉明天皇(皇極天皇重祚)の治世最後の年である661年に、朝鮮半島では新羅が唐の支援のもとに百済に侵攻しました。その救援のため、正月に、天皇は、内海を渡って征西しました。途中、「御舟、大伯海(おおくのうみ)に到る。時に大田皇女(おおたひめみこ)女を産む。仍(よ)りて是の女を名づけて大伯皇女(おおくのひめみこ)と曰ふ」と斉明紀にあります。

 この征西には額田王が從つてゐました。

熟田津(にぎたつ)に 船(ふな)乗りせむと 月待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな

 額田王の歌です。迫力がありますね~。

 この征西には、中大兄皇子はもちろん、大海人皇子や多くの妃たちも同行しました。大田皇女とは、中大兄皇子の娘で、大海人皇子の妃です。十年後には運命的な敵對關係に入らざるを得なかつたこの婦たちの偉大な皇子もここ頃はまだ共通の目標によつて固く結びついてゐたのです。 つづく

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このページは、宝徳 健が2017年5月 8日 07:01に書いたブログ記事です。

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