命の手紙 15(皇紀弐千六百七十七年 參)

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 この記事で、年間目標進捗にあと▲60通で追いつきます。とおいな~。

 父の手紙を讀んでゐると、「よく、ここまで記憶が」と思ひます。ITがない時代です。メモをとつていたのでせうか? それとも、あの激動の昭和初期を經驗したら記憶に鮮明に残るのだらうか。どちらにしても明治~昭和一けたの人たちはすごい。

 つづきです。

 昭和20年4月、父が応召になったとき、山崎のお父さんは「お前が兵隊に行くようでは日本は負けるな」と言った話お披露してくれた。父は「第二乙で色網」(甲・乙・第二乙・丙)の区分んがある。

 僕は他を顧みない勉学一途の子供だったので、世俗のこと? はあまりよく知らなかったが、増田桂子の名が出てきたときは驚いた。僕はマスダケイコチャンとは言わず、ケイコと呼び捨てにしていて、ケイコは「ウチ、お兄ちゃんのお嫁さんになるんだ」とボクの後をついてまわっていた。

 しばらくして「さきほどお電話差し上げた山崎多代の姉です」と電話がある。お姉さんは、京城女子師範学校に進学したのえ西湖津にはいなかったらしい。いま福井市におすまいだという。

 へー機縁だなと思い「いま孫が毎日新聞福井市局にいる」と告げたら、折り返し電話があり、「書道展の件で毎日新聞にはよく行くので支局長に電話したら、お孫さんは夏休み。明日から出社」だとの返信があった。

 面白いことがあるものだ。孫、田辺一城は、夏休みだったが、福岡の家に帰らないで、柏の我が家にきていて、いま帰った。すれ違いだった。

(このてがみをはり。次囘からは、プラハの春です)

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このページは、宝徳 健が2017年5月 4日 04:10に書いたブログ記事です。

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