和歌と國造り 4(皇紀弐千六百七十七年五月四日 四)

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 この記事で▲59。目標管理つてしんどいですね(笑)。

あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る

 萬葉集を學習したら必ず出てくる歌です。この歌は、実は、ものすごい意味を込めたものなのです。

 我が國史上、すさまじい英雄が二人存在したことがありました。でも、両雄並び立たずです。悲しい結末がまつてゐました。

 天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子:おおあまのおうじ)です。しかし、この二人の血で血を爭ふ時の流れは我が國にとつては大切なものでした。申し上げたいのは、時代の流れを創るとき、それは、生半可なことでは創れないといふことを、現代のぬるま湯に浸かつてゐる私たちは歴史から學ばなくてはならないといふことです。

 しばらくは、このお二人のことをみていきませう。
 紹介した歌は、額田王(ぬかたのおおきみ)の歌です。天智天皇の寵愛を受けてゐます。

 滋賀縣東近江市一帯を昔は、蒲生野(がもうの)と云ひました。そこで、鹿の袋角や藥草をとる藥狩(くすりがり)といふ公式行事が行はれてゐました。そのあとの宴での歌です。

 實は、大海人皇子と額田王は、愛しあつてゐたのです。

 (あかねさす)紫の野を行き、人が入らないやうに標(しるし)をつけておいた野を行つて見ると、あなた(大海人皇子)が、袖を振つてゐるではありませんか。野守(番人)にみられたらどうすのですか。

 額田王は天智天皇に寵愛を受けてゐます。いはば、天皇の女です。天皇の女に天皇の弟がちょっかいをだすなんてことろ、門番にみられて噂になったら大變です。大海人皇子の天智天皇に對する挑戦の芽はこのころから生じていたのでせう。

 さて、この額田王への大海人皇子の返歌は? つづく

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このページは、宝徳 健が2017年5月 4日 04:26に書いたブログ記事です。

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