命の手紙 16(皇紀弐千六百七十七年五月五日 參)

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 これを書いたら▲55です。ただの年間目標管理ですので、讀者の方は氣になさらないでください。

 今年九十歳になる親父が、今までの人生や今まで氣づいたことなどを手紙に書いて送つてきます。何かを遺そうとしてゐます。それむをこのブログに遺してゐます。

 今囘から、「プラハの春」です。 私たちの年代がギリギリ覺へてゐるかゐないかですね。ただ、當時はこの共産主義關連ニュースなどをみると、「共産主義は怖いなあ。共産主義の國に生まれなくてよかつた」と思ひました。 共産主義とは、世界中の金持ちを殺しまくって、その財産をみんなで分けようといふのが基本思想です。「生産」の概念はありません。「生産」をせずに「分配」するので、すぐに貧乏になります。その貧乏を共産党員に無理強いするか、新たに金持ちをぶち殺すか(侵略するか)しかありません。 そして、極度のビューロクラシー(官僚主義)です。ビューロクラシーがいかに危險かは、我が國の官僚をみてゐてもわかりますよね?

「プラハの春 写真」の画像検索結果

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 歴史の再確認をしませう。プラハの春です。數囘に分けます。

(用語解説)
閑話休題:余談を打ち切って、本筋にもどる意を表す語。それはさておき。さて。

ビロード革命
1989年10月29日、約1万による集會がプラハで開かれ、人々は改革に動こうとしない共産党ヤケシュ政権打倒を叫んだ。11月に入り、ベルリンの壁開放がとどくと市民・学生の活動は活發となり、11月19日に「憲章77」のハヴェルらが中心となり「市民フォーラム」を結成、政府に対して共産党指導部の辞任、全政治犯の釈放などを要求した。連日30万規模のデモがプラハやブラチスラヴァで繰り広げられ、ついに24日ヤケシュ書記長以下共産党幹部が辞任、12月にはフサークが大統領を辞任し、代わってドプチェクが連邦議会議長、ハヴァルが大統領に選ばれた。こうして大衆行動によって流血の惨事を回避しながら共産党政権の打倒と民主化を實現したチェコスロバキアの変革は「ビロード革命」とも言われている。

 1990年に新憲法を制定するに當たり、議会で國名論爭が起こった。國名から社會主義を消すことでは合意したが、チェコ出身議員は「チェコスロヴァキア連邦共和國」にこだわり、スロヴァキア出身議員は「チェコ=スロヴァキア連邦共和國」とすることにこだわつた。スロヴァキアの獨自性を強く意識したのだった。双方とも譲らず、國名さえ決まらないといふ異常事態となったためハヴェル大統領が仲介し、いずれをも公式名彌とすることで妥協が成立し、異例の二重表記國家が生まれた。それでもスロバキア側の不満はくすぶり続け、4月には「チェコおよびスロバキア連邦共和國」の統一表記とすることで一応決着したが、分離の流れを止めることはできず、1993年についに國家分離となった。
□プラハの春
 自由を求めるチェコ・スロバキアの人々の動きと政権の動きに共産主義ブロック崩壊の萌芽を感じたソ連が、ワルシャワ条約機構軍を動員して1968年(昭和43年)に戦車で武力介入し、自由主義的傾向のドブチェク政権を打倒して傀儡政権を樹立した事件。

 西側報道陣が事件を沢山撮影して西側に放送し、人々の群れにソ連軍戦車が突入して人々を巻き込みひき殺す有様チェコの人々が戦車の予備燃料に火をつけて炎上させる有様など闘争が生々しくテレビに出た。東京のソ連大使館はすさまじい抗議や学生や市民に連日押し込まれた。


 プラハの春から40年目に、ボクはチェコの首都プラハに立っていました。

 「プラハの春」のときは、チェコ・スロバキアでしたが、この国は、チェコとスロバキアに分かれていてボクが訪ねたのは「チェコ」です。

 国が別れるときは、"血を流す革命"が定石ですが、チェコ・スロバキの場合は穏やかな分離で"ビロード革命"といわれています。-閑話休題ー


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このページは、宝徳 健が2017年5月 5日 01:53に書いたブログ記事です。

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