宇佐美の親父の思ひ出(皇紀弐千六百七十七年五月十二日 六)

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 これを書き終へたら▲39です。ふぃ~。さぼりは後がつらいや(笑)。早く起きたから眠いや。これを書いたら少し仮眠します。

 宇佐美グループの創業者 故 宇佐美史郎によく言はれてゐました(親父、ごめん、呼び捨てで)。

 「寳德なあ、いつも同じやうにやれ。調子がいいからたくさんやつて、調子が惡いときにはやらない。これはだめなんだ。いつも同じやうにやれ」。だからこのブログの經營では、親父に怒られますね。

 宇佐美の親父さんには、本當にかはいがつてもらひました。我が子のやうに。私が出光興産㈱名古屋支店の時の出光最大の販売店の社長さんです。一代で、一店舗から、年商4000億円にまで事業を立ち上げました。でも、4000億円を目指していたわけではありません。これもいつも云はれた言葉です。

「寳德なあ、儲けやう、儲けやうとするな。儲けやうとすると、商売が小さくなるし、社員の心も小さくなる。客に應へろ。さうすればなあ、客が自然に商売を大きくしてくれる」

 かつてこのブログにも書いてゐました。親父が考へる眞理を。書いてゐるとこれまた涙がでます。

 私は數かぎりない素晴らしい人と出會つたのに、何ひとつ活かしてゐません。親父のことについてはまた書き始めますね。
 私が出光興産㈱を辞めるとき、親父から電話がありました。「明日の日曜日にちょっと顔をだせ」。「あ~、止められるのかなあ。親父から止められるとつらいなあ」。

 行きました。いつもの隱やかな會話です。たはいもない。

 「あのとき、お前とこんな會話をしたなあ」「あのとき、一緒に行った出張は面白かったなあ」「あのとき食った・・・・」 よく覺へてゐるなあ・・・・、私ごときに・・・・。

 辞めるなといふ話はほんの少しもありません。

 4時間ぐらいが經ちました。

「親父さん、今日はありがとうございます。久しぶりにお會ひできてうれしいです」
「おお、もう歸るか。これを持って歸へれ、これも持って歸へれ」

 私の両腕はお土産でいっぱいです。

 ドアを開けるときにうしろから「寳德、出光を辞めるな。お前が辞めたら、俺がさびしい」
 
 親父は、いつも最後に大切なことを云ふ人なんです。担當をしてゐたときも。今囘も。

 振り向きませんでした。涙があふれてとまりませんでした。心の中で「親父、ごめん」

 辞めてからも、しょっちゅう、うちに電話があつたさうです。私がいない、土曜日か日曜日に。

 カミサンが「また、宇佐美社長から連絡あったよ『主人は、仕事でいません』と言ったら、うれしそうな聲で、『そうですか、土日も仕事をするやうになりましたか』って、言ってたよ」

 宇佐美の親父は元旦しか休みません。私は元旦と二日です。

 何が働きかた改革だい。

 親父が亡くなる前に、「寳德、俺はもうだめだ。意識のあるうちにお前の顔が見たい」。仕事にかまけて、親父に會ひにいけませんでした。一生の悔やみです。

 私は幸せなことに、素晴らしい大人に數知れず教へを受けました。この年になつてまだ果たしてゐません。

 親父が亡くなつたとき、葬式に車で走りました。飛ばしに飛ばしました。150キロ。當然、覆面につかまりました。「この世で一番大切な人の葬儀に行くんです。早く切符を切ってください」「そうですか。スピード違反をするような人には見えませんよね(しょっちゅうしている)」で、許してもらへました(笑)。

 親父、ありがとう。

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このページは、宝徳 健が2017年5月12日 05:18に書いたブログ記事です。

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