どの本よりわかりやすい南総里見八犬伝 再10(皇紀弐千六百七十七年五月三十日 五)

| コメント(0) | トラックバック(0)
 八犬傳や宇佐美の親父の記事を再掲しやうと思つて、過去の自分のブログを検索していたら、私、結構よい記事を書いてゐますね~。戰國策、六韜三略、支那の古典・・・・・。今の讀者の方が讀まれていない記事もありますので、どんどん再掲していきますね。ブログを書き始めて今年で十二年になるんだ~。

 閑話休題(このことば氣に入りました:笑)。大塚に所領をもっていたのになぜ、番作は犬塚かというところからでした。
 傷の手当に日を費やした番作と手束(たつか)夫婦は、武蔵国大塚村に戻ってきました。しかし、大塚の里に、すでに母はいませんでした。腹違いの姉の亀篠 (かめざさ)が、ごろつきの弥々蟇六(ややひきろく)と夫婦となって、大塚の家を占領していたのです。この亀篠と蟇六はえらい悪い奴らで、これから様々な 騒動を起こしてくれます。

 さて、一方、鎌倉では、信濃の山中に隠れていた足利持氏の末子である永寿王(えいじゅおう)が探し出されて足利成氏(なりうじとなって君臨し、結城合戦の戦死者の遺族が取り立てられるようになった時世でした。

  そのような時代です。蟇六はそれをうまく利用しました。わざわざ鎌倉に行って、自分の妻の亀篠は、成氏の兄で、合戦で死んだ春王、安王に使えた大塚匠作の 娘で自分はその婿であることを訴えでたため、武士にはなれなかったけれど、大塚村の村長を命ぜられたのです。荘園も八町四反を与えられました。

  ですから、番作と手束が帰ってきても、もう手遅れで、戻る場所がありません。つまり、財産を亀篠と蟇六に横領されていたのです。匠作からの大塚家を慕う村 民は、亀篠と蟇六がにくくて仕方がありません。でも、どうしようもないので、せめてはと、蟇六夫婦をもとの大塚家の屋敷の前にある空き家を番作夫婦にあて がいました。そして、匠作の恩に報いるため、みんなで番作夫婦の食い扶持を負担しました。

 番作もいまさらどうしようもないと、大塚家の相続権を放棄し、「犬塚」と名乗ったのです。じゃんじゃん。これが大塚→犬塚となった経緯です。なんで「大」が「犬」になるかって? わたしゃ知らん。馬琴に聞いとくれ。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.soepark.jp/mot/mt/mt-tb.cgi/6923

コメントする

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このブログ記事について

このページは、宝徳 健が2017年5月30日 03:38に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「どの本よりわかりやすい南総里見八犬伝(皇紀弐千六百七十七年五月三十日 四)」です。

次のブログ記事は「福髙讃歌 7(皇紀弐千六百七十七年五月三十日 六)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。