鷹乃學習(皇紀弐千六百七十七年七月十七日 參)

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 今日から、七十二候 小暑 末候 「鷹乃學習」です。「たかすなはちわざをならふ」と讀みます。

 五・六月に孵化した雛が、巣立ちの準備をする頃です。 獨り立ちができるやう、飛び方を覺へ、獲物の捕り方を覺へ、「獨り」といふことを一から學びます。

 世界で象形文字(表意文字)を維持してゐるのは我が日本だけではないでせうか? 支那は、完全に字を崩してゐますし、朝鮮など、あれが字なのかわからないほどです。表音文字で育つと、感情的になりやすくなります。それは、支那人、朝鮮人、歐米人を見るとわかりますよね。だから小學校から英語など、とても恐ろしいことなのです。

 漢字には「字源」があります。それを體系化したのが白川静先生です。2冊持ってゐますが、本を開くととてもワクワクします。

 學習の「習」も象形文字です。
 「習」の「白」は鳥の胴體を指します。「羽」は文字通り。なので「習」は、ひな鳥が親鳥の飛ぶ姿を観て、「自分も飛びたいなあ」と思ひ、羽を何度も何度もバタバタさせるといふことを意味します。つまり「同じことを何度も何度も繰り返す」ことが「習」です。なので、學ぶだけではだめです。「學習」が必要です。今日からの七十二候は、「學習」となつてゐますね。

 では「習慣」を考へませう。「慣」の邊は、「忄:りっしんべん」です。「心 こころ」です。だから「忙しい」は、「心を亡くす」と云ふ意味です。なぜ心といふか。「慾望がたくさんあつて、考えてゐることがコロコロコロコロすぐに變はるので」「こころ」と云ひます。あれにしようかなあ、これにしようかなあ。とかですね。

 造りの上は「毋」です。母ではありません。母の二つの點は、乳房を指しますが、「毋」は、つながつてゐます。「毋」は銭挿しです。昔のお金は、眞ん中に穴があいてゐましたので、ばらばらにならないように、棒のやうな「毋」で一つにまとめてゐました。お金が關係するので「貝」がつきます。だから「慣」は、「コロコロ變はる心を變はらないやうに一つにまとめる」となります。「志」も同じです「十(たくさん)ある心を變はらないやうに一つにまとめる」です。

 なので、習慣は、「コロコロ變はる心を 變はらないやうに 人とにまとめ 何度も何度お同じことを繰り返す」ことになります。

 習慣の同義語に「躾 しつけ」があります。これまたつまり「コロコロ變はる心を 變はらないやうに 人とにまとめ 何度も何度お同じことを繰り返す」と「身が美しく」なります。

 そして、「しつけ」を丁寧語にすると「おしつけ」です。未熟な者は、最初は「おしつけ」でいいのです。

 それを「パワハラ」だとかなんだとか・・・。今の日本は狂つてゐます。

 鷹に負けずに力を盡しませう。

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このページは、宝徳 健が2017年7月17日 02:59に書いたブログ記事です。

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