案山子論法(皇紀弐千六百七十七年七月十七日 六)

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 クライアントさんのホテルで書いてゐます。やはり朝はいいな~。これを書いたら手紙を書きます。

 子供の頃から口が達者だつた私は、母からよく「言ひたいことがあつたら、三つ數へてからにしなさい。三つ數へてまだ言いたかつたら云ひなさい」と云はれました。

 最近、だいぶん、自分の云ひたいこと(私から發信する「誰が(つまり私)正しいか」を云はなくてもストレスがたまらなくなりました(笑)。

 人と話してゐるときに、その人の話が終はつたとたんに「でもな」「けどな」と云ひ返す人がゐます。かういふ人たちは、相手が話してゐるときに、その話をろくに聞きもせず、頭の中で自分勝手に解釈して、もう反論を考へています。なぜわかるかつて? 昔の私がさうだつたからです。
 人は、完全に相手のことを「受け入れる」ことはできません。でも、「受け止める」いや、「受け留める」ことはできます。

 最近の國會論戰を聞いてゐると、この感覺が全くありません。逆にディベートにもなつてゐません。

 「相手を自分にとつて都合のよい論的の形にあはせてかたごり、それを倒すことを『案山子論法』といひ、イデオロギーをめぐる論客の世界で憎しみを産むものである」(三浦瑠璃さん)。

 また、結論が決まつていて、その結論ばかりではなく、そこに至る經緯まで、自分の思い通りにさせやうとすることを「設計主義」と云ひます。官僚がこれをよくやります。

 あとは左翼。ギャーギャー暴れてくれる左翼ならよいのですが、本當に惡い左翼は、保守のやうな顔をして、90%正しいことを云ひ(かなり髙いレベル)で、人を騙し、そして、最後の10%でこの設計主義をぶつけてきます。90%の過程で信じてしまつてゐる人は、この10%を信じてしまつてゐます。

 あ~、ばかばかしいなあ。みなさんの大好きな民主主義なんでせう? 國會、街角、TV番組・・・。きちんと相手を受け留めませうよ。

 案山子論法や設計主義をしたつて、自分のストレス解消にしかなりませんよ。

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このページは、宝徳 健が2017年7月17日 03:56に書いたブログ記事です。

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