戰國策 再25(皇紀弐千六百七十七年八月二十八日 四)

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 昨日に引き続き「臣下に屈して天下に勝つ」です。名将 白起将軍にまつわる話です。ここでは武安君(ぶあんくん)という名前で出てきています。秦 の昭王の質問に武安君が答えます。
   「長平の戦いでは、わが方は大勝、敵は大敗しました。秦は勝利にわき立ち、戦死者は鄭重に埋葬されました。負傷者はあいついて看護を受けました。 弱った者には栄養が与えられました。しかしそのために秦の財力は底をついいたのです。それに反し、敗れた趙では、戦死者は収容されず、負傷者は手当ても受 けられぬ窮状でした。しかし、国中悲しみを分け合い、憂いを共にして耕作につとめ、こうして国力を蓄えました。たとい昨年の倍の軍勢を差し向けたとして も、おそらく趙の守りは昨年の十倍も固いでありましょう。趙は長平で敗れて以来、臣下はむろん、王までが、早朝から夜更けまで政務に励んでいます。

 近隣の諸国にも、鄭重に使節を派遣し、燕(えん)・魏(ぎ)と結び、斉・楚とよしみを通じ、ひたすら秦に備えてきました。いまや趙の国力は充実 し、近隣との外交も円満です。趙を討つ時期ではありません」

 武安君のこの言葉に昭王は次のようにいいました。

 「もう軍を動員したのだ。やめるわけにはいかない」

 そして、別の将軍に命じて趙に攻め入ります。どうなったでしょうか。

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このページは、宝徳 健が2017年8月29日 08:12に書いたブログ記事です。

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