命の手紙 55(皇紀弐千六百七十七年九月二十八日 參)

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☐宝徳 卓の思い出 つづき
 卓は山道を1時間かけて四ケ浦(しかうら)中学校に通っていた。バスが1日に朝夕2本あるが通学の時間帯にはないから往復徒歩だ。(今は海岸通りが走っていて、距離も半分ほど短くなっている)。

 卓が中学校を終えたとき(末弟・治は小学生だった)、当時、大阪府豊中市の会社の家族寮にいた佳男は福井から母と弟二人を呼び寄せた。

 家族寮は二間だった。ここに母と末弟治と佳男と妻と長女と長男の6人が生活した。炊事は共同で銭湯。

 卓の名が抜けているが、彼は、私のいた会社に中学卒で採用試験を受けて、合格し、独身寮に入っていた。当時は「集団就職」と言われた時代で中学卒業は"金の卵"!だった。 つづく

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このページは、宝徳 健が2017年9月28日 08:41に書いたブログ記事です。

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