命の手紙61(皇紀弐千六百七十七年十一月二十七日 參)

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 「身體髪膚受之父母。不敢毀傷孝之始也」「しんたいはっぷ、これを父母に受く。あへてきしょうせざるは孝の始めなり」。支那の古典 孝經の一節です。「おやからもらった身体である。どんな小さな部分でもそれを傷つけないのが親孝行のスタートであり最も大切なことである」といふ意味です。

 あかん。私は子供のころから、身体は傷だらけです(涙)。親不孝の權化です。今囘も、自分はしんどいはずなのに、わざわざ關西まで九十歳の親父が來てくれました。私はアホですね。

 久しぶりのシリーズなので、前囘分も載せておきます。

 
「お母さんは日本の國の世話になっていない」正是の帰国第一声は「苦労したよ」
 昭和20年8月15日‐敗戦。ソ連軍の捕虜になった軍人60万人はシベリアに拉致された。海外各地にいた残留邦人や軍人軍属は日本が配船した「引揚船」で日本内地に帰ってきた。 

 日本が統治していた「朝鮮半島」は、北(今の北朝鮮)なソ連が、南(同・韓国)は米国が占領した。

 ソ連軍占領下の北朝鮮は日本からの引揚船の配船を拒否したばかりか、出国に自由をも奪った。


 北朝鮮に残留していた邦人の選ぶ道は、

①北朝鮮に残る
②陸路脱出
③海路脱出

の三つになった。

 父がソ連軍の捕虜となったわが家は、長男佳男が松山海軍航空隊(愛媛県)に入隊していないので、次男正是(まさよし 16歳)が指揮官となり、母・姉・弟二人の5人は、1人千円で買収した朝鮮人が操る帆掛船(帆船)に乗り、昭和21年5月27日、朝鮮咸鏡南道興南府西湖津港(ちょうせんかんきょうなんどうこうなんふせいこしんこう)からの脱出を決行し、日本海をただよった。




 米軍の監視船に発見されて南朝鮮(今の韓国)の注文津(ちゅうもんしん)という港に誘導された。末っ子の治は母の背で、ひもじさのあまり泣いてばかりいたという。 つづく

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このページは、宝徳 健が2017年11月27日 08:57に書いたブログ記事です。

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