母の誕生日 52(皇紀弐壱千六百七十七年九月十二日)

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 今夜は徹夜なので、このブログから明日の日付にしてください。

 IKさんの奥さんも今日が誕生日です。おめでたうございます。

 母は生きていれば八十五歳です。昭和七年九月十二日生まれ。

 一度だけ、誕生日を忘れて連絡しない時がありました。家に歸つたらものすごく悲しさうな顔をしてゐました。今でも、その日のことを思ひだすと心が痛みます。平成七年七月十日死去。享年六十二歳でした。
 今までたくさんの母との思ひ出をこのブログにも書いてきました。

 髙校の時も大學の時も、學校から歸つて、學校や友人のことを話すと、ケラケラケラケラ笑つてくれましたね。

 あんなにオシャレで新しいものが好きな人だつたのに、自分の物は何一つ買わずに、常に、父と子供もたちのものばかり。亡くなった時には、遺品と呼べるものがなにもありませんでした。私がもらったのは、湯飲み茶わんひとつです。それでも、母と一緒にいられる氣がしてうれしかつた。

 母が死んだときは(都立大塚病院に殺されたやうなものですが)、父が集中治療室の前のソファで寢泊まりする番でした。父と私が一日おきにソファに寢に行きました。父が云ひました「俺の番のときでなかつたら、俺はその場で死んでいた」と。小さいときは、父を恨んだ時期もありました。「なんでお母さんが病氣で苦しんでゐるのに、お父さんは仕事ばかりするんだろう」と。一度だけそれを言つたら、母にひどく怒られました。父を惡く云ふことは、私には認められてゐませんでした(姉と妹はよく言っていた(笑))。 でも、父と母は家族の中の役割が違つてゐたのですね。

 今の世の中はおかしい。男女平等などと。雄と雌が平等だったら、ミジンコみたいになります。男女は区別されることは古事記にも示されてゐます。とにかく私たちとは受けてきた教育が違ふ。

 とにかく自分のためには物を賈はない人でした。時々お土産やプレゼントを賈つて歸るととても喜んでくれました。私はあまり女性に物を贈つたことがないので、きつと、くだらないものを贈つたのだと思ひます。

 食事に誘ふと大喜び。ひとつひとつ覺へてゐます。

 亡くなつたとき、どこからだつたか、私の高校時代の生徒手帳が大切にしまわれてゐるのが見つかりました。財布だつたかなあ。涙が出ました。これです。



 インターハイに行った年です。


 「お母さん、あなたが亡くなった歳にあと三年で追いつきます。この三年間をどう生きるかを定めますね。

 「お母さん誕生日おめでたう。 お母さんが、この世に生を受け、そして、お母さんの子供に産まれてくることができました」。天に母に父に、心から感謝します。

 私は親から受けた以上の愛を親に返していない。情けない。

感謝合掌

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このページは、宝徳 健が2017年9月11日 23:49に書いたブログ記事です。

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