命の手紙 54(皇紀弐千六百七十七年九月二十七日 弐)

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 父が三番目の弟 卓(たかし)のことを書いてゐます。父の兄弟は、敏子(長女)、佳男(父:長男)、正是(まさよし:次男)、卓(三男)、治(おさむ:四男)です。正是と卓は他界しました。

☐宝徳 卓の思い出 つづき
 卓は、昭和21年8月15日から、翌年の5月27日(博多上陸の日)まで(1年の1学期から翌年の5月まで)

 学校に行っていないことになるので、2年に編入せずに世間の皆さんから見れば1年遅れのしかも途中から小学1年生になり、福井県丹生郡越前町玉川にある越前町立岬小学校に入学した。

 越前町玉川は、宝徳の本籍地であり、父・義一も上岬(かみみさき)小学校の卒業生である。

 父はソ連軍に捕虜・連行されたので、母と、弟・卓と治は郷里の知人の家に一室を借りて、18歳の佳男は大阪に出稼ぎに出た。

 佳男の仕送りが少ないため郷里に遺してきた3人の生活は極端に苦しかった。お金がないとき卓が母に「あんちゃん(ボク)に手紙を出して(電話のない時代)『紙のお金(紙=大金?)』を送ってもらったら・・・」と言ったことがあったらしい。

 母は、やっと部落から借りた山の上の荒れ地を耕していた。肥料の樽を負ぶって山に登る母の姿があり、悲壮感があった。 つづく

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このページは、宝徳 健が2017年9月27日 08:14に書いたブログ記事です。

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