戰國策 再67(皇紀弐千六百七十八年三月一日 參)

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  さて、今日から趙の話です。最初は、刺客の話です。この話は史記にも載っています。史記はあまり、刺客の話は載っていないのですが、今日紹介する「予譲(よじょう)」は載っています。ひとつの男の生き方なのでしょう(20091201)。「士為知己者死、女為説己者容」支那のいろいろな古代物語を讀んでいて印象に残る言葉の一つです。
 
 予譲は、はじめ范氏(はんし)と中行氏(ちゅうこうし)に仕えましたが、あまり重く用いられませんでした。その後知伯氏(ちはくし)に仕えたところ、知伯氏は予譲に目をかけました。

 知伯氏は、かなり評判の悪い男でした。そして、知伯氏は、韓・魏・趙の連合に殺されてしまうのです。

 知伯氏を最も憎んでいた趙の襄子(じょうし)は、知伯氏の頭蓋骨を便器にしました。

 知伯氏に仕えていた予譲は山中に逃れました。「ああ、士はおのれを知る人のために死に、女はおのれを愛する者のために化粧する(士為知己者死、女為説己者容)。主君の恨みは必ずはらすぞ」とため息をつきながら言いました。

 街に出て、姓名を変えて、襄子の宮殿に入り込みました。予譲は厠の壁を塗り替える仕事にありつき、襄子が厠で用を足すときに、暗殺する機会を待ちました。

 襄子が厠にはいろうとしたとき、襄子は胸騒ぎがしました。壁塗りの労務者を捕えてみると、予譲ではありませんか。しかも、コテに刃がしこんでありました。

予譲「お前は何者だ」
側近「知伯氏に仕えていた予譲だ」
予譲「おのれ、殺してくれる」
襄子「待て! この男は義士だ。私が用心すればすむ。知伯はすでに滅んで子孫もいないのに、家臣が仇を報いようとする。これこそ天下の賢人だ」

 と言って予譲を放免しました。

 さて、ここからがすごい話です。つづく。

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このページは、宝徳 健が2018年3月 1日 08:39に書いたブログ記事です。

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