戰國策 再58(皇紀弐千六百七十八年一月四日 四)

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 斉の国の話が続きます。
 田単(でんたん)と貂勃(ちょうぼつ)

貂勃はいつも「あの人はくだらん」と宰相の安平君田単をけなしていました。

田単は酒宴を設けて貂勃を招き
「あなたには、いつも朝廷で非難されるが、私に何か落ち度でもあったのだろうか」と聞きました。

貂勃「盗賊の飼い犬が堯(古代の聖王)に吠えるのは、盗賊を敬って堯をバカにするからではありません。犬は飼い主には吠えないもの。かりに愚者と賢人が闘ったとします。愚者の飼い犬は、相手が賢人だろうとも、どのこむらに噛み付くでしょう。ましてや、賢人に飼われているとしたら、相手のこむらに噛み付くだけではすみますまい」

田単「なるほど」

翌日、田単は、貂勃を襄王に推薦しました。襄王には九人の寵臣がいました。かれらは田単の勢力を弱めようとして王に言上しました。

家臣「わが斉が燕の攻撃を受けたとき、楚王は一万の兵をさずけて救援してくださいました。そのおかげで、いまや我が国土は安泰でございます。使者を遣わして、楚王に感謝の意を表すべきではありませんか」

王「誰をやろう」

家臣「貂勃が適任でございます」

貂勃が使者として行くことになりました。

楚の頃襄王(けいじょうおう)は、歓迎の宴をはって貂勃を迎えました。そのため貂勃は予定の日数を過ぎても帰りませんでした。寵臣たちはごぞって王に言上しました。

家臣「貂勃ごときが大国の君主に引き止められるのは、後ろに安平君田単の権威があるからです。安平君は、臣下の礼もつくさず、分もわきまえていません。そればかりか、よからぬことまでたくらんでは、人民をいたわり、貧乏人を救って徳をほどことしています。外では、外国の人間や賢人をてなずけ、ひそかに諸侯の英雄、豪傑と交わっています。何事かたくらんでいるにちがいありません。なにとぞご賢察のほどを」

王「単を呼べ」

 田単は、冠もつけず、素足のまま肌をぬぎ(恐れ入って罪を受け入れる覚悟)となって伺候し、死罪を請いました。五日後に、沙汰がありました。

王「疑いはとけた。今後とも臣下の礼をつくしてほしい。私は王たるの礼をつくそう」

 貂勃ガ楚から帰ってきました。王はさっそく召し寄せて盃をたまわりました。宴もたけなわになって
王「単を呼べ」と命じました。

 貂勃は座をさがり頭をさげて言いました。

貂勃「なぜそんな亡国の言葉を口になさいますか。いったい、あなたは周の文王とどちらが偉いと思いますか。

王「文王には及ばない」
貂勃「そうでございましょう。では斉の桓公とはいかがでしょう」
王「桓公にも及ばぬ」
貂勃「その通りです。文王は呂望を大公とし、桓公は管を仲父(ちゅうほ:自分の父がわり)として教えを請いました。ところがあなたは、安平君を「単、単」と呼び捨てになされる。そればかりか、有史以来、臣下として、安平君ほど高い功績をあげた者はおりません。なのに「単、単」と呼び捨てになされる。なぜそんな亡国の言葉を口になさるのか。その上、あなたは先代からあずかった国土を守りきれず、燕に侵略されて城陽(じょうようの山中に逃れました。その間、孤立無援の城をもちこたえたのは、どなたです。戦い疲れた兵卒七千を率いて敵の大将をとりこにしたのは、どなたです。斉の国土を奪回したのはどなたです。みんな安平君の手柄です。あのとき、安平君が、あなたを城陽に閉じ込めたまま、自分で王位についたとしても、おそらく誰も反対できなかったでしょう。しかし、それでは、道にはずれ、義に反します。安平君は、路をつくり宮殿を建てて、王妃ともども城陽の山中からあなたを迎えました。かくてあなたは、国に帰って、再び王位につくことができたのです。いまはもう国も安定し、人心も落ち着きました。それで、「単、単」と呼び捨てになさるのですか。赤子でもそんなことはしません。すみやかに九人のものどもを殺して安平君にあやまるべきです。さもないと国を危うくします」

 王は九人の寵臣を殺して、その一族を追放し、安平くんに一万戸を加増しました。

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このページは、宝徳 健が2018年1月 3日 20:31に書いたブログ記事です。

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