どの本よりわかりやすい南総里見八犬伝 再84(皇紀弐千六百七十八年二月十一日 五)

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  茶店の親父が「信」の玉を持つ犬飼現八にある話をしはじめました(20100409)。

仁:犬江親兵衛(いぬえしんべえ) 犬田小文吾の妹ぬいの子供
義:犬川荘助(いぬかわそうすけ) 大塚村で蟇六・亀篠夫婦に雇われていた額蔵


忠: 犬山道節(いぬやまどうせつ) 浜路の兄。不思議な行者。
信:犬飼現八(いぬかいげんぱち) 大塚村の信乃の隣に住んでいた糠助の子供。古河で、 信乃と対決して一緒に行徳に流れていった。
孝:犬塚信乃(いぬづかしの) 大塚村の番作の子供 浜路の許婚
悌:犬田小文吾(いぬたのこぶ んご) 行徳の旅籠屋の息子
 しばらく茶店の親父の話です。これがまた長いんだ~。どうやって要約するか。馬琴と勝負!

「この山は、赤岩庚申山(あかいわこうしんやま)と言うだ。この山はここから約五里の山と沢の細道の先に在り、胎内くぐりという石門より奥には、誰も行く人はいねえだ。ただ、十何年か前、赤岩村の武芸の達人が、山の奥までいったことがあるだ。同行した弟子達がとめるのを振り切って、単身奥の院を目指して石橋を渡って進んでいっただが、夜になっても戻ってこねえだ。翌日村中総動員して探索したが見あたらねえ。もちろん、石橋より先に進もうとする者はだれもいなかっただ。

 夕刻になってむなしく引き上げようとしたところへ、その男が現れただ。そして、一同に奥の様子をたらたら、詳しく説明しただ。

 この男の妻は亡くなっていてのー、その妻とに、角太郎という子がおったんじゃ。この男が庚申山から帰還してから一年後に、後妻にも子供が生まれたんじゃ。それ以来、その男も五歳も、角太郎を目の敵にしてのー。それを見た母方の伯父が、うちは一人娘だから、角太郎を用紙にもらえないかと申し出たんじゃ。この伯父の姓が「犬村氏」なんじゃ。男は喜んで角太郎を犬村家にくれてやったんじゃ。角太郎は、文武両道の達人だった養父の教育によって若くして文武の奥義を極めたのじゃ。犬村家では角太郎が十八になったとき、元服させ、犬村角太郎礼儀(まさのり)と名乗らせて、娘の雛衣(ひなぎぬ)と夫婦にしたんじゃ」

 ふ~、まだまだ続きます。年寄りの話が長いのは、昔も今も変わらないみたいです。でも・・・。「犬村」ですって・・・。つづく。

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このページは、宝徳 健が2018年2月11日 08:31に書いたブログ記事です。

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