楠木三代考 5(皇紀弐千六百七十八年四月十七日 七)

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 兵庫に向かふ途中で正成が、數え11歳の嫡子・正行に與へた教へは以下の3つです。

一、當座の命が助かるために降參不義の振る舞ひはするな
二、一族郎党一人でも生き残れば、金剛山に籠城せよ
三、敵が來れば、命を惜しまず戰つて名を後代に残せ

 この教へを與へられた正行は、楠木氏の本拠地・河内に歸へされます。

 正行はその地で成長し、父の十三囘忌を行ったあと、室町幕府に對して擧兵します。二十三歳でした。
「今は命惜しとも思はざれば、その勢五百餘騎を率(そっ)し、住吉、天王寺邊りで打ち出でて(略)京勢や懸かるとぞ待ちたりける」

 機内各地で幕府軍を破る正行(まさつら)に幕府はついに、將軍家執事の高師直(このもろなお)を総大將にした大軍を派遣します。その數なんと六萬。正行軍は三千です。さあ、四条畷の戰ひがはじまります。



 正行は、高師直の身代はりを討ち果たし、足利尊氏の弟である直義(ただよし)が替え馬で命からがら落ちるところまで追い詰めました。

 しかし手勢に無勢、激戦の末 正行は、五か所に矢傷を負ひ、左目じりは射られ矢が折れるほどの深手でした。残つた手勢はわずか113。「今はこれまでと思ひけん」。正行は正時ら二人と立ちながら差し違へました。その最期は、手勢を70人餘りに減らし、自らも11か所の手傷を負って正季(まさすえ 正成の弟)と刺し違へた父・楠木正成とそつくりでした。つづく

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このページは、宝徳 健が2018年4月17日 03:40に書いたブログ記事です。

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