「惜しむ」ではないなあ 三十年目標の見直し(皇紀弐千六百七十八年一月三日)

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 今の三十年目標が

百人以上の方に三十年後の私の死を惜んでいただける人間になる

 「あの人良い人だつたなあ」「あの人が亡くなって惜しいなあ」なんて誰でもできますね。「惜しむ」では弱いし、具體的ではない。

私は、百人以上の方に三十年後の私の死が國家の損失と云はれる人間になる

 強すぎるかなあ。もう少し考へてみます。

 今もあるのかなあ? 大學時代、「日本人の死生観」といふ本を讀みました。大嫌いな岩波新書ですが(笑)。學生時代「日本人の死生観」といふ本を讀みました。大嫌いな岩波新書です(笑)。學生時代はまだそんなことに氣づいてゐませんでした(笑)。今、探してみますね。

 あった、あった。へーっ、あった。結構髙いや。まだ讀まれてゐる證處ですね~。

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 岩波だけどちよつと讀んでみたくなりまた。節約は今年のテーマの一つですが、最後の人生構築の年ですので、本だけは賈ひます。

 日本人は、常に、「どう死ぬか(どうやつてこの命を世の中に役立てるか)」を見つめ生きてきました。つまり、「有事を想定した平時」で常に生きてきたのですね。私たちのの先輩はすごいですね。日教組の腐った教育を受けてきた私たちは、本當に情けない。これこそが、井上毅が教育勅語に注入した精神「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」ですね。毎朝暗誦しているときに、この部分になると涙が出てきます。何も天皇陛下を何が何でもお守りしろなんて言つてゐませんし、天皇陛下もそんなことはお望みではありません。「皇(すめらみこと)」ではなく、皇祖皇宗以來のこの天壌無窮の「皇(すめらぎ)」を維持しろと云ふことです。それも「シラス」といふ國體で。これが我が國の憲法です。そのときの國民の在り方は、聖德太子の十七条憲法にあらはされてゐます。

 さあ、私はどうやって死ぬか。それが三十年目標です。もう少し試行錯誤させてください。この年になってもまだ自分探しをしてゐる自分が情けない。やはり、我、未だ潜龍なりですね。

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このページは、宝徳 健が2018年1月 3日 07:53に書いたブログ記事です。

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