あづま(皇紀弐千六百七十八年五月六日 弐)

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 北は「きた」「ホク」です。南は「みなみ」「ナン」です。西は「にし」「せい」です。みんな二つずつ。

 ところが東だけは「ひがし」「トウ」の他にもう一つ。つまり、讀み方が3つあるのです(現代において。ホツマツタエと云ふ日本語の言語ではもっとあります)。
 日本武尊は、静岡で難敵に囲まれ、草原に火を放たれました。天叢雲剣 あめのむらくものつるぎ で草を祓い、火を逆方向に追ひ返し、難を逃れます。その後、日本武尊一向は、東へ向かひます。

 すると浦賀水道が大嵐です。

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 このままでは全滅です。そこで、日本武尊の妻の弟橘媛 おとたちばなひめ が、「あなたには何度も命を助けていただきました。今度は、私が恩返しをする番です」と、嵐を鎮めるために入水(じゅすい)します。

 日本武尊は悲しみますが務めを果たすために、さらに東征します。木更津(現在の)に着きました。すると、そこに弟橘媛の袖が海に流れてくるではありませんか?

君さらず 袖しが浦に 立つ波の その面影を みるぞ悲しき

 日本武尊が詠みました。この歌から、今の木更津と袖ケ浦の地名になりました。

 使命を終へて、西へ歸へる日本武尊は、東を振り返り「吾妻はや(我妻よ)」と云ひます。これが東を「あづま」と呼ぶ起源となりました。だから、東だけ、讀み方が3つあります。

 すごいと思ひませんか?神話の世界から現代語に續いてゐるのですよ。

 こんな國はないですね~。さあ、まともなことを話すことが可能な時代になりました。眞理と眞實と事実をしっかとり學びませう。

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このページは、宝徳 健が2018年5月 5日 20:08に書いたブログ記事です。

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