Tennis Diary この本に自己の発掘をせよ 4(皇紀弐千六百七十八年六月八日 弐)

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 私は昭和三十三年八月廿日 午前7時36分に産まれました。自宅で。

 泣かずに産まれてきました。いはば、死産ギリギリでした。機轉をきかせた産婆さん(助産婦のことを昔はかう言った)が、私の足をもって逆さづりにし、往復ビンタをしたさうです。そうしたら泣いたとか。

 なので、小さい頃はものすごい虚弱体質でした。いつもビービーないて、母のスカートにつかまっていたさうです。父と母は「この子は、大人になるまで生きられないかもしれない」と話したとか話さなかったとか。

 なので、母は、私の男の子教育はとても厳しかったとか。親戚の人たちは「お母さんは、健ちゃんには嚴しかつたね」と云ひます。でも、私には 厳しさ<優しさでしたから、優しい母の顔しか思ひうかびません。

 そして、私がやることにブレーキをかけることはほとんどありませんでした(人間としておかしくなければ)。静岡県駿東郡裾野町(現 裾野市)に住んでいるときなど、一人で山奥に入ろうが、危険なところに釣りに行こうが、止められたことはありません。

 小學校三年生のとき、自轉車で轉びました。左ひざを見ると、何かちり紙のやうなものがついてゐます。なんだろうと思って引っ張ってみると、私のひざ下の皮と肉でした。骨がくつきりみえました。自轉車を引いて家に帰りました。「ケガした~」。まずは姉が出てきました。「またね?」と。でも私を見た次の瞬間、顔が青くなりました。

 すぐに病院に連れていかれました。まだ、あるのかな。鈴木醫院。手を膝のところに突っ込まれて消毒。麻酔はかけるもののまつたく効きません。ひと針縫うごとに激痛が軆體全體をかけめぐります。その時、母は、手術臺の私の頭のところにゐました。

「あんたは、男の子なんだからね!泣いたら承知しないからね!」

 ひと針縫うたびにどなられます(笑)。

 十二針縫い終わったときに。「泣かなかったよ」と母をみると目に涙があふれてゐました。「うん、うん」とうなづきながら。

 すこーしずつ、強くなって、中學校・高等學校と上がっていくと、どんどん強くなっていきました。本當ですよ。小學校三年生の時はまともに鉄棒の逆上がりもできませんでした。高校三年生では大車輪が出来ました。

 さて、なんか、日誌のブログが、人生の振り返りになってしまひました(笑)。もう一度、十五歳の自分に鍛え直してもらいたいから。

 中學浪人中です。このころから、インターハイ出場を意識しはじめてゐたのですね。福井選手とは、國内無敵の髙校チャンピオンです。インターハイ会場は福岡縣の東公園です。
 8/6 インターハイを観て

 福井選手はすごい。高校生離れというより日本人離れをしている。自分のテニスをまとめあげてしまわないように心がけている。そしてなによりも情熱がある。すべてをかけている。彼ならチャンピオンになってもおかしくない。中西伊知郎君もうまいが、なにかかけている。福井選手とは違う。それが彼自身分からなければいくらうまくてもチャンピオンになれないだろう。8日の決勝戦が楽しみだ。

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このページは、宝徳 健が2018年6月 8日 05:41に書いたブログ記事です。

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