Tennis Diary この本に自己の発掘をせよ 2(皇紀弐千六百七十八年六月六日 弐)

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 この日誌のノートの裏表紙に書いてある言葉。「一日でも成長をしない日を持つことは許されない」です。私は今、十五歳の私にもう一度鍛え直してもらっています。なんと情けない。

 私が、大學に入學してからしばらくたつた時のことです。福岡に住んでいゐる姉が、電車の中で私の中學三年生の時の担任に会いました。秦 しん と云ひます(先生という称号をつけたくない(笑))。

秦「おお、寳德やないか。お前の弟は今、どげんしよっとか」
姉「ああ、秦先生、お久しぶりです。弟は今、慶應ばいっとります」
秦「はっ???!!! 嘘ばいいやんな。あいつが慶應やらいけるわけなかろうもん。見榮ばはらんでいいけん、本當のことば言ふてんやい」
姉「本當ですよ」

その日に姉から電話がありました。「ほんなごつ、頭のこようが。こげん言われたとよ」と。

 この、秦が私の最惡の内申書を書いた張本人です。でも、最初は恨みましたが、私は中學浪人をしてよかったと思つてゐます。高校の受験勉強をしてゐるとき「ああ、俺は、まだ、中學の勉強でやり残したことがたくさんある。このまま髙校に入っていいのだらうか」と強く強く思ひました(両親には申し訳ない氣持ちでいっぱいです)。

 神樣が、それをわからせてくれるために、秦を私の前に遣はしてくれたのです。

 しかし、一つだけ愚痴(笑)。中學浪人をして、次の受驗が近づいてきました。出軆中學に内申書をもらいにいかなくてはなりません。中學(遠賀郡芦屋町立芦屋中學校 惡の巣窟です (笑))の秦に電話をしました。「明日、17時に参ります」と。次の日、電車の遅延がありました。ダッシュで行きました。着いたのが17時5分。秦は私が遅れたからと、もう、帰っていませんでした。今は知りませんが、福岡縣は、日教組の力が當時、絶大でした。教師は、ほとんどこんなものでした。さあ、この品行方正(?)な私と秦との確執はどうして起きたのでせう(笑)。次回のお樂しみ。

 では、日誌の続きです。中野君とは、地域のテニスのエースです。中學の頃から硬式をしていました。中野君のいるクラブに私は入ったのです。今、どうしているのかなあ。會ひたいなあ。
6/9 蒸し暑い AM9:00~PM2:00
中野君と試合をした。6-0、6-2で敗けたがさすがにうまい。たいへん勉強になった。僕も早く高校生になって彼においつきたい。ネットプレー、レシーブがあまい。サーブはだいぶんわかってきた。練習を始めるときは、軽くからだをならしてからはげしい練習にした方がいい。こんどするときは、6-2、6-2にくいさがろう。


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このページは、宝徳 健が2018年6月 6日 08:08に書いたブログ記事です。

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