Tennis Diary この本に自己の発掘をせよ 8(皇紀弐千六百七十八年六月十六日 參)

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 この十五歳の日誌のタイトルでさへ笑つてしまふんのに、日誌の内容たるやなんたる生意気(笑)。

 書いてもしやうがない日は飛ばしてゐますのでご了承ください。

 私は昭和四十五年四月に静岡県駿東郡裾野町から福岡県遠賀郡芦屋町に轉校しました。小學校六年生です。

 怖かったですね~。あるとき、プール(海邊にあつた)に行って泳いでいると、むちゃな泳ぎをしてくる人とぶつかりました。O君といふ一つ年上(中學1年生)の人でした(そんなことはその時わかりません)。O君は學年番長です。ムッときた私は、少し文句を云ひました。

 すると、次にプールに行ったときに、大勢(20人はいました)の中學生にトイレに連れ込まれました。殴ったのはO君だけでしたが。恐怖で動くことが出来ませんでした。格好惡いですが、必死に土下座して謝りました。でも、ボコボコにやられました。「ああ、もう、今日は生きて帰れないなあ」と思ひました。

 ひどい顔になりました。家に帰りました。母「どうしたの?」私「階段で轉んだ」母「ふ~ん」。父も何も云ひません。おそらくわかってゐたのですが、軆體の弱い私を大人まで生きさせるために心を鬼にしたのでせう。

 姉からいつも怒られます(今も)。あんたはどんだけママ(姉と妹は今でもかう云ひます。私は六年生からお父さん、お母さんです)に心配かけたと思ひやうと、と。

 まあ、とにかくすごい街でした。髙校で博多に行ったとき、「博多とはなんと平和な街なのだらう」と思ひました。

 さて、偉そうな日誌もついでに讀んでください。
11/27
 この日記に目を通すのもひさしぶりである。本を読んでいてもテニスのことばかり頭が行く。高校生になったらあれをしようこれをしようとばかり思う。年下のやつには負けたくない。だから高校生になったらまず体を鍛えよう。体力をつけよう。そして、そうしている時点で苦しくなったとい、このノートを見よう。それができてそれのために苦しさならば、それは幸福の一部である。たとえそれのために身が破滅しようとも。できない苦しみよりはましである。ずいぶんと。さあ、もうしばらくのがまんだ。

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このページは、宝徳 健が2018年6月16日 21:44に書いたブログ記事です。

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