Tennis Diary この本に自己の発掘をせよ 16(皇紀弐千六百七十八年七月五日 四)

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 私は、中學生のときは軟式テニスの後衛です。軟式は、後衛と前衛の分業化となってゐます。試合時間も短い。この時代軟式テニスにシングルスはありませんでした。ダブルスのパートナーは、中本君。同級生に意地君、吉野君がいました。あと一チームだれだっけ?ダブルス3つで戰ひ、2勝した方が勝つのが團體戰です。このメンバーで筑豊地區大會 團體戰を制し、福岡縣大會に行きました。このときも監督・コーチなんていません。先輩たちに鍛えられました。私たちの一年生の時の三年生は結構強くて、格好よく女性にもててゐました。姉と同級生たちです。

 二年生は確か一人。私のダブルスパートナーの真田さん。とてもよくしていただきました。私の中學浪人が決まったとき、真田さんが、「お前は意志が強いから大丈夫だ」と言ってくれました。励みになりました。考へてみると、私はいつのときも、いえ、苦しい時ほど人に支へられてゐます。その恩を忘れてしまふから、いつも苦しさを神樣がくれて思ひださせやうとしてゐるのでせうね。

 あるとき、部活の休憩時間だったかなあ、真田さんと二人で校舎の近くを歩いてゐると(一年生の時。 真田キャプテンに代替わりした後だから秋ぐらいかな)、真田さんと同学年の女の子が窓から「宝徳く~ん」と聲をかけてくれました。真田さんが「おーおー、もてるやんか」と云ひました。この女性、遠い親戚なんです。中學に入るまで親戚だとはしらなかったのですが・・・・。なんで、覺へてゐるかって???

 結構好きだったから(爆笑)。今、はじめてのカミング・アウト(爆笑)。

 でも、私は、中學も髙校も大學もものすごい奥手(就職してからも)でしたから女性と付き合ふといふことがなかった。なんともつたいない青春でせう。だから女性との接し方がものすごくへたくそです。今でも(すこしはましになつたと思ひますが(笑))

 中本君は、今、軆體を壊して奥樣の郷里にいます。前は大阪に單軆赴任をしてゐたので、よく會つてゐました。

 真田さんは、どうされてゐるのだらうか? 逢ひたいなあ。 そうだ、以前、この記事で ウーチャンのことを書くと云ひながら忘れてゐました。次囘書きます。

 もう思ひ出したくない中學時代だと思つてゐたのに、どんどん思ひだしてきます。過去の縛られるのではなく、過去を尊び過去の自分から何かを學びます。

 IKさんの會社の理念は

「過去を尊び、今を楽しみ、未来を創る」

です。過去にこだわっていたら、今も楽しめないし、未来も創れないですものね。素敵な理念です。

 若い大谷選手も言つてゐます。

先入観は可能を不可能にする

 過去にこだわる人はかうなるのでせうね。

 さて、日誌。昭和五十年秋の中部地區大會 新人戦。結果は

團體戰 優勝
シングルス 3位
ダブルス 準優勝

です。情けない。リーダーと云ふのは

いかなる状況下でもチームを勝利に導く人間

です。まだ、1年でキャプテンではないにせよ、いえ、1年でキャプテンでないことに甘えて、かういふ結果です。この邊が當時の私の限界でした。
 9/22
 ダブルス  2位

 なんともしまらない試合。反省の材料とする。やっぱり負けはくやしい。どんなに練習で苦しくて辛くても、試合で負けるよりはよほど楽である。もっと苦しい練習を、吐くほどの練習を。自分に妥協しない練習を。こんなことができる人間になりたい。

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このページは、宝徳 健が2018年7月 4日 21:48に書いたブログ記事です。

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