2018年7月アーカイブ

 彼女の名前ではありませんよ(笑)。すごい守護神が海軍に配備されました。イージス艦 「まや」。


 我が國初の共同交戦能力(CEC)を搭載したイージス艦です。昨日就航しました。

 CECをは、自艦レーダーが探知していなくても味方レーダーが捉えれば迎撃できるネットワークシステムです。
 今囘は、見好くんです。
 理想の政治とされる唐の太宗の「貞観の治」を書いた、貞観政要を掲載しています(20091109)。

 今日のテーマは「人道は謙を好む」です。
 意識を取り戻したアジブの耳におごぞかな聲が聞こえてきました。
 光源氏の正妻 葵の上の産後の肥立ちが惡く、葵上は危篤状態になりました(20170430)。

「六条御息所 絵」の画像検索結果
 再就職先の危機を父はどうやつて乘り切ったのでせう。
 敗戰後の誤った教育により、リーダー教育が否定されたことは前囘述べました。マネジメントだけうまい官僚的な優秀な行政官のような人間は大企業を始め組織にはゴロゴロゐます。マネジメントを否定はしてゐません。リーダーシップに基づかないマネジメントは意味がないことを申し上げてゐます。

 そしてもうひとつ。有事と平時は違ふといふこと。平時にどんなに正しいことでも、有事には完全に誤りであることが多いのです。だから、有事を想定した平時の行動でやらないと有事では全員死んでしまひます。でも、優秀な行政官たちは有事でも平時のマネジメントをやろうとします。

 我が海軍(もうごまかしをしたくたいので海上自衛隊のことをこれからはこう呼びます)の特殊部隊「特別警備隊」を創設した伊藤祐靖氏が、特別警備隊と有事の訓練をしていゐた時の話です。
 なんでこの本の存在を知ったのだろう?もう最高に面白い。賈つたときとても安かったのに、最近、中古本市場で調べたら8,000圓~15,000圓。びっくり。

 でも、良書です。
 一昨日の産經新聞朝刊の記事です。「どんな汚れた服もきれいにしてみせる」。

 岡山の総社と倉敷に店舗を構えるクリーニング屋さんの記事です。讀んでゐて涙が止まりませんでした。なんと素晴らしい。紹介しておきますね。
 このシリーズは今囘で締めます。でも、書いていて氣づいたことがあります。1年生で技術が驚く程未熟な中(私の技術が全國レベルに伸びたのは2年生の春からです)、意志だけはしつかりしてゐる自分がゐます。なので、親父の「命の手紙」、私のTennis Diary そして、その後の私の經驗も踏まへ、リーダーシップについてのシリーズをこのシリーズの發展版として書いてまいります。
 
 いつも申し上げてゐます。リーダーとは、

いかなる状況でもチームを勝利に導く人間

です。しかし、個人スポーツのチームとは、それはそれは纏めることに難しさがあります。團體スポーツはその比ではありません。

 なぜなら、個人スポーツは、普段はお互いがライバルだからです。そいつがいなければ個人戰は樂に勝ち進めるからです。現に私たちの部は、メインレギュラー全員が中部地區大會の準決勝に残るほどでした。

 ものすごく變な言ひ方をします。普段は殺したくなるほど憎らしいのです。でも、ダブルスや團體戰で勝つためには、そいつの力を自分が引き出さなければ(これは相手も同じ氣持ちです)、勝てないのです。殺したくなるほど憎たらしい相手達とチームを組む。

 そのためには、凄まじいぐらいの「經營目的」と「經營目標」が必要です。そして、リーダーがそこから一歩も下がらない。これを髙校時代に身につけました。

 だけど、私は「福岡髙校テニス部のかつての強さと傳統をもう一度取り戻す」といふ經營目的を掲げたため私のテニス部經營は中途半端なものになりました。「福岡髙高校テニス部の過去最高の榮誉を全員の成長で勝ち取る」としてゐたら、經營目標は「全国完全制覇(シングルス、ダブルス、團體戰)」となっていたでせう。なぜなら、我が校テニス部はかつて全国制覇をしたことがあるからです(完全制覇はない)。

 經營目的とはこれほど大切なものなのです。經營目標の上位に位置します。絶對に目標が上位に来てはいけません。

 その過去を振り返りながら、また、今後の残りの人生でリーダーシップを發揮していくために、リーダーシップ論と自分の經驗を振り返りながら次囘以降書いてまいります。

 戰後の誤った教育により、官僚のような優秀な行政官であるマネジメンタ―はごろごろゐます。でも、リーダーのなんと少ないことか。
 唐の太宗が行った理想の政治とされている貞観政要をシリーズで掲載しています。源頼朝、徳川家康もお手本にしたといわれています(20091102)。

 今日のテーマは「高殿の造営を許さず」です。
 さて、葵の上に子供(光源氏の子)が生まれました。生霊になつて葵の上に憑りついた 六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は不快なままです(20170425)。
 長らくご愛読いただいた戦国策も最終回となります。今日は、中山(ちゅうざん)という国の話です。テーマは「怨みは深浅を期せず」です。
 縣大會が終はりました。結果は團體戰 準優勝でインターハイ出場を決めました。個人戰は残念ながら・・・。私はシングルで第四シードをもらつてゐたので、順調に勝ち進めばシングルスでもインターハイに出場できました(ダブルスは私は出場しなかつた)。初戰からすべて柳川商業のレギュラー陣を當てられました。でも、これは言い譯です。下位レギュラーなら負ける相手ではありません。團體戰での主t場を決めた後、一氣に戰闘能力が低下しました。精神力の欠如です。

 さて、私たちはあとは8月のインターハイに向けての調整だけ。2年生に政權が移りました。なので、私は、この後の部運営を知らないのです。讀んでいくと結構2年がたくましい。それを樂しみに、この日誌を書くことにします。
 しばらく書かないうちに、二十四節氣が大暑になってしまひました。

 昨日から 七十二候は、大暑 次候 土潤溽暑です。「つちうるおしてむしあつし」と讀みます。

 それにしても今年の夏の暑さは異常ですね。台風が來てゐます。みなさん、氣をつけませう。


 片目の乞食のアジブの話でした。磁石島に乘つた船がどんどん引き寄せられつひにぶつかり、船は砕け散ってしまひました。
 ブログ完全復活します。今月はきつかったなあ。

 さて、六十二歳の時の親父の活躍を樂しみます。普通、定年後の再就職でここまでやらないですよね(笑)。

 父が再就職して1年経過の1月、不況のあおりを受けて工事実績が半分になりました。
 今日のテーマは「小国の延命策」です(20100622)。

 宋という国が出てきます。戦国時代は、周→春秋時代→戦国時代と推移します。この周の前が殷です。周の武王が殷の暴君 紂王を倒したとき、すぐれた人物であった、紂王の兄、微子啓(びしけい)を封じてつくった国が宋です。
 この記事から明日のルーティンです。

 リーダーの定義は都度都度このブログで申し上げてゐます。では、リーダーの絶對条件は何か!

 いかなる状況でもチームを勝利に導くために

意思決定

と云ふ、孤獨なリーダーにしかできないことをやることです。これが出来ない人はリーダーではありません。「みんなの意見を聞いてから」。手法のオペレーションを決めるときは大切なことでせう。しかし、戦略を決定するときにこの言葉を吐く輩は、リーダーとは絶對に呼べません。

 さて、人間は知識だけ持っていてもだめです。

知識:知るか知らないか
見識:本質を見抜けるか
活識:できるかできないか
胆識:やるかやらないか 断固として実行する勇氣
喜識:その苦しみさへも受け留めで實行する

 我が國は、敗戰後の誤った教育によりリーダー教育がどこにもなくなってしまひました。せいぜいマネジメント教育です。だから、優秀な行政官は出ますが、眞のリーダーはどこの分野にも出ない。

 もつと云ふと、明治維新でリーダーは失はれました。ただ、江戸時代と云ふ軍事政權の武士、寺子屋で育った庶民は、官立學校ではなかつたので、リーダーが育ってゐました。
 長くあけてすみません。さて、リハリビリでもするか。

 さあ、昭和五十二年六月四日の一日前 六月三日です。次の日は全國総合體育大會 福岡縣大會(インターハイ最終予選)です。この大會が終はつたら、私達三年生は、部の經營權を2年生に渡します。勝つても、負けても。勝ったらあとはインターイに向けて調整を行ふだけです。

 繰り返します。私たちのテニス部には、監督もコーチもゐませんでした。髙校生だけで考へ實行して、全国大會に出場するなど、至難の業でした。部の総務・經理などもすべて自分たちでやります(といふか私とマネジャーと)。時には、辯當の手配も。自分のプレイを高める、部を統治してゐく(組織コンフリクトを解消していく)、などなど、を行いながら、部全體を、インターハイ出場といふ勝利に導いていく「リーダーシップ」が求められます。

リーダーとは、いかなる状況でもチームを勝利に導く人間

です。ここでいふ勝利とは何か。

「スタッフのポテンシャルを最大限に引き出し、スタッフの力を借りて、組織として最高のパフォーマンスとアウトプットを出す事」です。私たちの場合には、インターハイ出場を最高のフォーマンスで勝ちとること、です。

 これを髙校生の一プレイヤーに求められました。私の2年半の部活は苦しみの連續でした。だからわたしは、

インターハイに行きたい

とは一度も云ひませんでした。

インターハイに行く

でした。行けなかったら、變な表現で失礼しますが、死のうと思ってゐました。

 でないと、自分自軆がプレッシャーでつぶされてしまふからです。かういふものを監督・コーチが取り除いてくれ競技だけに集中できる今の髙校生は幸せですね。でも、幸せでした。誰にも味わへないものを手にできました。

 部の經營目的は「福岡髙校テニス部のかつての強さと傳統をもう一度取り戻す」でした。我が部は、全國制覇複数囘經驗部です。

 結果としてインターハイに出場出来ました。OBの支援など利用(失礼します)できるものはすべてしました。でも、これが私のリーダーシップ&マネジメントの限界でした。なぜインターハイで優勝するにしなかったか。目的レベルが低いのです。これについては、また追々書いてまいります。

 さあ、インターハイ予選前の最後の練習です。長井くんが書いてくれてゐます。

 確かOBの九大 山口さんが 練習参加してくださいました。心配だったんでせうね。ありがたいことです。
 多くのリーダーが参考とする、唐の太宗の貞観の治。それをまとめたものが貞観政要です(20091026)。

 今回のテーマは「自己推薦制は是か否か」です。
 さあ、當時六十二歳の 定年後に再就職した父が益々大暴れ(笑)。
 まあ、話はぐちゃぐちゃです。葵の上に憑りついてゐたのは、なんと六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)だつたのです(20170422)。

 さて、そんなことはありあしたが、葵の上(光源氏の正妻)は、無事に出産しました。贈り物が次々持ち込まれ、三夜、五夜、七夜、九夜の祝宴もにぎにぎしく催されます。

 六条御息所は自分が生霊となつて葵の上に憑りついたことには氣づいてゐません。でも、魂が抜けてさまよつてゐるやうな感覺はあり惱んでゐました。

 出産のニュースを聞いて、「あらっ、命も危ないといふ話ぢやなかつたの」とうらめしい。

 氣がつくと衣裳には祈祷に用ひる香のにほひが滲みこみ、髪を洗つてもとれません。

 「ああ、やはり、生霊になつて葵の上の枕邊に行つたんだわ」 自分が厭わしくなります。こんなことが世間に知られたら大變なことになります。獨リ心の中に隱してゐるとますます氣が變になりさうです。

 さて、光源氏はどうでるか。
 私の日誌とか、後輩の日誌とかは、主觀が多いのですが、生田さんは、客觀的に嚴しくみてくれてゐます。こんなに嚴しかったっけ? 心の中では嚴しかつたんですね(笑)。
 中国古代、戦国時代の人間模様を書いた戦国策を紹介しています(20100621)。

 今日のテーマは「水争い」です。
 今は二十四節氣 小暑 しょうしょ です。梅雨が明け暑さが本格的になつてきます。蝉も泣き始めます。

 七十二候は、今日までが温風至 あつかぜいたる です。そして、明日から 小暑 次候 蓮始開 はすはじめてひらく です。
 そうだ。ウーチャンのことでしたね。お兄さんは、上級生で軆體も大きく喧嘩も強い人でした。當時、たくましい兄が上級生にゐるといふことは、自分自軆のかなりの安全保障になりました。私は姉です。兄が慾しくて慾しくてしかたがありませんでした。

 中學に入りたての私は、そんなに喧嘩が強くありませんでした。新聞配達の給料で、家に入れる以外の部分を溜めていろいろなものを賈ひました。14オンスのボクシンググローブ(シャドウボクシングをしていた)、木刀(素振り)をしました。腕立て伏せもたくさんやりました。そんなんで自分を鍛えますが、たかが知れてゐます。あの中學にいたとき、もっとも思ったのは、

力なき正義は正義にあらず

です(笑)。

 まあいいや(笑)。そうだ。新聞配達のお金で初めて賈つたのはラジオでした。スイッチを入れると聞こえてきたのが、カーペンターズのイエスタディワンスモアでした。カーペンターズを知らなかった私は、アメリカ人の女性はなんときれいな歌聲なんだらうと感激しました。

 そんな中學生活の中でなぜか仲良くなったのが、ウーチャンでした。武谷君。軆體は小さいですが、根性あり。喧嘩もあの中学で生きていけるぐらいは強かった。でも、やさしい人間でした。なぜか私に聲をかけてくれて、よく遊んでゐました。

 中學浪人も一緒にしました。ある日、ウーチャンが髙進學與備校に出てこなくなりました。次の日から毎朝、毎朝、ウーチャンの家に迎えに行きました。「ウーチャン、行こう。來なきゃだめだって」。ウーチャンは來てくれました。懐かしいなあ。もう一度會ひたいなあ。

 さて、中學後半から體力がついて、髙校に入ったらバリバリになった私の、生意気で仕方がない髙校時代の日誌のつづきです。

 どのテレビ局かは忘れましたが、岡山縣 真備町の被害のことをやってゐました。その中で、ハザードマップといふものが紹介されてゐました。

 BCPをやるときには、リスクアセスメントを、そうですね~、だいたい3段階か4段階でやります。その際に重要なアイテムとなるのが「ハザードマップ」です。
 この記事から明日のルーティンです。

 今囘は、中山君です。
 光源氏の正妻 葵の上に憑りついてゐる、もののけの正體探しが始まります(20170414)。

 六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)も胸騒ぎを覺へます。ますます氣が滅入つてしまひます。

 光源氏が訪ねてきますが、そう簡單に氣はおさまりません。

 「つらい、にくい、苦しい、でも好き」

 なんせ、光源氏には子供が生まれるのです。もう訪ねてこないかもしれません。
 さて、生田マネジャーの嚴しい御意見でも聞きますか。私たちもが1年生。2年生の吉倉先輩のコメントもあります。この書き方だと3年生はもう引退してゐますね。
 中国古代、戦国時代の人間模様を書いた「戦国策」を紹介しています。戦国策ももう残りわずかになってきました。今日から、小さな国のことを紹介して行きます。戦国時代は、七雄という大きな七つの国で争いが繰り広げられました。でも、七雄以外にも小さな国が存在したのです(20100620)。

 戦国の世の中にあって、弱小国ほど立場の苦しいものはありません。生き延びるためには、強大国以上に権謀術数をめぐらさなくてはなりません。

 今日は、西周という国の話です。テーマは「言い逃れのコツ」。
 一日過ぎてしまひましたが、七月十日は、弊社の創業記念日です。十七年經ちました。

 そして、母の命日。平成七年七月十日。もう二十三年。母は全軆リウマチでした。最初にかかった醫者がでたらめで間違った治療をし、輕い症状ですんだ病氣なのに全軆がガタガタになりました。ほぼ全軆が人工関節になりました(最終的に)。

 それでも、「痛い」と云ふ言葉をほとんど聞いたことがないですし、自分から寝たきりにならないやうに、家事は賈ひ物も含めすべて自分でやつてゐました。
 大阪北部地震、今囘の豪雨被害。心が痛みます。被害に遭った方々にお見舞いを申し上げますとともに、お亡くなりになった方々に心から哀悼の意を表します。ご冥福をお禱りもうしあげます。

 大阪北部地震の際に、大阪ガスが復舊の見込み無しとの報道がありました。前にも書きましたが、これではいけないんです。BCP(事業繼續計画 Business continuity plan いかなる災害が起きても事業を継続する体制を平時から創っておく)を持っていないのです。持っていたとしても、総務課誰かが勝手に創って全社で共有していない。
 サーバーをレンタルしているファーストサーバ―のシステム障害でブログも開かずメールも送受信できませんでした。ご迷惑をおかけしました。

 しっかしまあ、ひどいサーバー會社です。

 明日からまたバシバシ書きます。

 本日は、母の命日かつ弊社の創業記念日です。この記事も明日書きますね。
 唐の太宗の政治を語った「貞観政要」を紹介しています。今回のテーマは「都督、刺史は須(すべか)らく人を得べし」です(20091019)。

 貞観二年、太宗が側近の者に語りました。



 この手紙は前も讀んだことがあつたのですが、今、讀みかえすと、ものすごく勉強になりますね。私の名刺には以下の言葉が書いてあります。

人に學び、生き方を學び、そして生き方を創る

 まさにそれを今、父から命の手紙を通して學んでゐます。なんと情けない。いくつになっても・・・・。

 今囘、書いてゐる手紙は、この後どんどん迫力を増します。ぜひ、お讀みください。

 今日、親父からハガキがきました。かみさんが笑いながら云ひました。「私達より長生きするね(笑)。負けないようにがんばろう」と。

 さて、定年後大暴れの德さんです。
 葵の上と六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の確執からでしたね(20170410)。

 六畳御息所は、十分幸せになつてよい女性です。なのに東宮(皇太子)である夫には早世され、光源氏は浮氣者、葵の上にはあなどられました。もともとプライドは髙く、一途な性格で、傷つきやすいタイプです。さらに高貴。私たち下々の者にはこの苦しみはわかりません。

 さて、葵の上の妊娠の経過がよくありません。
 私は、中學生のときは軟式テニスの後衛です。軟式は、後衛と前衛の分業化となってゐます。試合時間も短い。この時代軟式テニスにシングルスはありませんでした。ダブルスのパートナーは、中本君。同級生に意地君、吉野君がいました。あと一チームだれだっけ?ダブルス3つで戰ひ、2勝した方が勝つのが團體戰です。このメンバーで筑豊地區大會 團體戰を制し、福岡縣大會に行きました。このときも監督・コーチなんていません。先輩たちに鍛えられました。私たちの一年生の時の三年生は結構強くて、格好よく女性にもててゐました。姉と同級生たちです。

 二年生は確か一人。私のダブルスパートナーの真田さん。とてもよくしていただきました。私の中學浪人が決まったとき、真田さんが、「お前は意志が強いから大丈夫だ」と言ってくれました。励みになりました。考へてみると、私はいつのときも、いえ、苦しい時ほど人に支へられてゐます。その恩を忘れてしまふから、いつも苦しさを神樣がくれて思ひださせやうとしてゐるのでせうね。

 あるとき、部活の休憩時間だったかなあ、真田さんと二人で校舎の近くを歩いてゐると(一年生の時。 真田キャプテンに代替わりした後だから秋ぐらいかな)、真田さんと同学年の女の子が窓から「宝徳く~ん」と聲をかけてくれました。真田さんが「おーおー、もてるやんか」と云ひました。この女性、遠い親戚なんです。中學に入るまで親戚だとはしらなかったのですが・・・・。なんで、覺へてゐるかって???

 結構好きだったから(爆笑)。今、はじめてのカミング・アウト(爆笑)。

 でも、私は、中學も髙校も大學もものすごい奥手(就職してからも)でしたから女性と付き合ふといふことがなかった。なんともつたいない青春でせう。だから女性との接し方がものすごくへたくそです。今でも(すこしはましになつたと思ひますが(笑))

 中本君は、今、軆體を壊して奥樣の郷里にいます。前は大阪に單軆赴任をしてゐたので、よく會つてゐました。

 真田さんは、どうされてゐるのだらうか? 逢ひたいなあ。 そうだ、以前、この記事で ウーチャンのことを書くと云ひながら忘れてゐました。次囘書きます。

 もう思ひ出したくない中學時代だと思つてゐたのに、どんどん思ひだしてきます。過去の縛られるのではなく、過去を尊び過去の自分から何かを學びます。

 IKさんの會社の理念は

「過去を尊び、今を楽しみ、未来を創る」

です。過去にこだわっていたら、今も楽しめないし、未来も創れないですものね。素敵な理念です。

 若い大谷選手も言つてゐます。

先入観は可能を不可能にする

 過去にこだわる人はかうなるのでせうね。

 さて、日誌。昭和五十年秋の中部地區大會 新人戦。結果は

團體戰 優勝
シングルス 3位
ダブルス 準優勝

です。情けない。リーダーと云ふのは

いかなる状況下でもチームを勝利に導く人間

です。まだ、1年でキャプテンではないにせよ、いえ、1年でキャプテンでないことに甘えて、かういふ結果です。この邊が當時の私の限界でした。
 中国古代、戦国時代の人間模様を描いた「戦国策」を紹介しています(20100613)。

 荊軻(けいか)による始皇帝暗殺事件が失敗に終わりました。秦は燕を攻める口実ができました。
 さあ、すさまじい、新シリーズです。我が同期のテニス部マネジャー そして みんなの マドンナ 生田女史の「硬式テニス部 部誌」が出てきました。この前、連絡したら「ぜひ、送ってほしい」とのこと。まだだめ~(笑)。このブログであなたの素敵さをみんなに知ってもらってから送りますね。

恐らく彼女の存在がなかったら私たちはインターハイに出場できなかったでしょう

 人のためにこんなに親身になれるものなのですね。人って。 すばらしいサポートでした。四十餘年の時を超えて、彼女のすばらしさを紹介します。
 この記事から明日のルーティンです。靏君です。
 桂歌丸師匠が亡くなりました。大ファンだったので悲しいなあ。心からご冥福をお禱り申し上げます。


 八十一歳。師匠、まだ若すぎますよ~。

 メディアはまたまた勝ってなものですね。
 最近、氣力がとても囘復してゐます。事故前と比べてといふより、心臓病になる前と比べてかしら。體力はまだまだですが、仕事をしてゐるぶんには大丈夫。私は仕事で過労死なんかしない。

 わざわざ疲れることをしなければいいのに・・・・。それさへ注意すれば體力も大丈夫です。この1週間はとても良い仕事が出来ています。やはり懸案事項が片付くといふのは最高ですね。

 それも「Tennis Diary」とこの「命の手紙」のおかげです。十七歳の私と今書かれている當時六十二歳の親父(つまり今の私とほぼ同じ年)に刺激を受けてゐます。この二つの記事を書いてよかった。

 さてさて、定年後、再就職した父の暴れん坊ぶりのつづきです(笑)。
 今回のテーマは「その長を用いずしてその短を見る」です(20090831)。
 さて、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)です。皇太子の妻にまでなつた人です(皇太子は早世した)。光源氏も、この最上級の女性のところには、一時期足しげく通つてゐました。藤壺への満たされない思ひに替へやうと(20170314)。

 でも最近はご無沙汰です。手紙のやり取りさへあまりありません。辛い日々です。

 娘が伊勢神宮の斎宮(さいぐう:帝に替はつて神に奉仕する立場)に任じられたので「あ~あ、都にいてもしかたがないから、私も伊勢に行かうかしら」。

 でも、光源氏への未練があり、なかなか踏ん切りがつきません。
 中国古代、戦国時代の人間模様を描いた「戦国策」を紹介しています。生きるか死ぬかの瀬戸際になると、人間は本来の姿を現すようです。とても面白い(20100612)。

 さて、シリーズで、戦国時代最大の暗殺未遂事件を紹介しています。荊軻(けいか)が始皇帝に斬りかかったところまででした。
 今朝ブログを入れようとしたら、ブログの方のシステムなのか、私のPCの調子なのか、どちらかが惡くてうまく入りませんでした。この記事は入るかしら? この記事から明日のルーティンです。

 なんで、こんなことを思ひ出したのだらう?以前にも書きましたが、かなり古い記事のこと。タイトルは「自衛隊不法侵入事件」です。コピペしますね(笑)。

 なんで、こんなこと思い出したんだろう??? 小学校のときに、学校の裏庭でバレーボールをしていました。当時は、オリンピックで男女ともバレーボールが 強くて、子供たちの間でも盛んに行われていました。バレーボールをしていて、ボールが転がって、ふと見るとそこにマンホールがありました。この後を書くの にちょっとドキドキします。こんなこと書いていいんかいな??? 35年以上も前のことだからいいよね、防衛庁長官?!

 この物語はフィクションということにしておきます。


 ひとりの友達が何気に、そのマンホールを空けました。そのときは、ふ~んという感じだったのですが、次の日、そのマンホールを除いた友達が「宝徳、 あのマンホール、底を覗いたら、となりの自衛隊まで続いている(地域を特定したくないのであえて標準語で書きます)。自衛隊の基地まで行ってみない?」と 言われました。彼は、他の友人にも声をかけ、決死隊が5名が結成されました。小学校の隣が自衛隊基地で、私たちは、かねてより、柵越しの向こうの方になってい る、柿や栗を採りたくてしかたがありませんでした。

 5名でマンホールの底に降り、非常に狭い平行の管を匍匐前進(ほふくぜんしん、腹ばいになり、手の力だけで前に進むこと)で、数十メートル先の、 自衛隊基地まで進みました。今考えると危険きわまりありません。崩れていたら、私たちは今日まで発見されずに、遺骨のないお葬式をだされていたでしょう。 あんなことろに小学生がいるなんで絶対に考えられませんから。

 それでも、なんとか向こう側の基地に到着しました。柿や栗は目の前です。誰か覚えていませんが、隊長になり、「伏せ」「突撃~」っと柿と栗を目指しました。その瞬間「こら~~!!!」という巡視兵の声。

 「お前ら、どっから入った???!!!」相手としては、なぜ、ここに小学生がいるのかまったくわかりません。わかるはずがありません。私たちの 柿・栗作戦は失敗に終わりました。なんていってる場合じゃありません。 本部まで連行されました。巡視兵を先頭に、5名が引き連れられて。そのとき、私の 年の近い非常に私をかわいがってくれた叔母(この人は目が悪い)が、自衛隊に勤めており、私たちが連行されるのをたまたま見て「あ~、小学生も基地を見学 できるんだ~、今度、たけしちゃん(私のこと)に教えてあげよう」と思ったそうです。

 基地本部に連行されました。恐いおっさんが、確か4名くらいで取り調べ「どこから入った?」「お父さんの職業は?」「住所は」「学校は?」「学年は?」と矢継ぎ早に質問が飛びます。

 5名の中に、自衛隊の幹部(三佐:昔の少佐)の息子が2人いました。「お父さんの職業は?」と聞かれても、その2人はなかなか答えません。取調官 の方から「もしかしたら、きみたちは、○○三佐と、○○三佐の息子さんか?」と聞きました。「はい・・・」。取調官は、「わざわざ忍び込まなくてもお父さ んに言えば見学できるじゃないか?」と泣きそうな顔になりました。

 その後も厳しい取調べが続きました。「親に言うぞ」「学校に言うぞ」と脅されました。あまり脅されるので、私は思わず「小学生に侵入される基地の方が 問題があるんじゃないですか?」と言ってしまいました。言ってから、「しまった!!!」と死ぬほど後悔しましたが、もう後の祭り。 このまま自分の人生は 終わると思いました。

 ものすごくしかられて、あ~、明日から、もう学校に行けないな、きっと勘当させられるだろう。もしかしたら、銃殺刑に処せられるかもしれない(こ れは真剣に思いました)、と考えて、とぼとぼと夕方帰宅したのを覚えています。この後の記憶は定かではありませんが、親にも学校にも通達がなかったように 思われます(当然ですよね。小学生が侵入できる基地なんて、軍事基地としてはありえません)。

 当時は、何事もなくビビリながらホッとしました。でも、親には・・・と思い、親に言ったところ、思いっきり笑われました。私の親は、特に母親は、 私の姉が長男を生んだときのアドバイスが「男の子はその日に生きて帰ってくればそれでいいのよ」だったくらいです(本当はとても心配だったと思います。親 になって言わない親がどれほど苦しいかわかります)。

 なぜ、今日これを思い出したかはわかりませんが、私は自分の子供時代を振り返ると、「よく今まで生きてたな~」と思うことばかりです。勉強はとりたててした覚えはなく、いつも野山・海を駆けまわっていました。

 心配を我慢して、枠に縛らず、のびのびと育ててくれた親に感謝です。今日は彼岸の中日! 亡くなった母のことを考えたときに思い出したことです。


 さて、日誌。中部地區大會 二日目です。昭和五十年。高校1年生です。

 今囘は、山本君です。
 ベルリンの壁が崩れ、東西冷戰に決着がついた時、社会主義者・共産主義者という暴力主義者は、
「左翼」と云ふ言葉を極度に嫌いました。自ら名乘ったのが「リベラル」です。昔、こんなことばなかつたもの。

 日本人は言葉を創る天才です。支那の憲法の七割は日本人が創った日本語出さうです。支那人は、日本人が言葉を創るのを待つてゐます。

 共産主義もさうです。なんかいや~な感じがする言葉ですよね。
 この貞観政要のテーマは「守成は創業より難し」です。事業承継のテーマにぴったりですね(20090815)。

 今回は「内挙には親を避けず、外挙には讎(しゅう)を避けず」です。

 第九帖は「葵」です。繰り返し書いてきましたが、葵の上は、光源氏の正妻です。左大臣の娘です。その兄が、頭中將(とうのちゅうじょう)です(20170312)。

 さて、時は、ほんの少し過ぎました。桐壺帝は、譲位して上皇になつてゐます(桐壺院)。弘徽殿の女御(こきでんのにょうご:光源氏が大嫌い。右大臣の娘。朧月夜の姉)。と帝の間にまうけた皇子が朱雀帝(すざくてい)に即位してゐます。そして、藤壺との間にもうけた(本當は、藤壺と光源氏の不義の子)が、立太子、つまり、東宮となつてゐます。
 中国古代、戦国時代の人間模様を描いた 戦国策 を紹介しています(20100611)。

 戦国時代最大の暗殺未遂事件。さあ、荊軻(けいか)が、秦の国に着きました。
 さあ、親父が六十二歳の時の暴れ方はどうでせうか。今、Tennis Diaryで十七歳の時の私に、そして、この命の手紙で 六十二歳の時の親父に教育を受けてゐます。負けてたまるか。といふか、私自軆に明らかに變化が出てきてゐます。やはり人間は氣力なのでせうね。
 一年生の時の新人戰 中部地區大會がはじまりました。正式な硬式テニス歴は半年です。結果を先に申し上げると、團體戦:優勝、シングルス3位、ダブルス準優勝です。ダブルスは2年生の吉倉さんと組みました。だめですね。本當に活躍しやうと思へば、一年の新人生で、地區の大會など、輕く勝たなくてはなりません。當時はこの邊が私のマネジメントの限界です。

 福岡縣は3つの地區に分かれてゐました。北部・中部・南部です。北部にライバル門司(もんじ)君がゐました。南部が柳川商業、北部は福岡市を中心とした地區です。我が校です。

 キャプテンの立場で、監督・コーチ・部長の仕事を全部する。これをやってゐると、テニスをするのがたまらなく怖くなります。何故か知りませんが。私の髙校三年間のテニス人生は恐怖の連續でした。誰にも何も相談できないからかなあ。

 まあ、いいや。では日誌を。
 この記事から明日のルーティンです。 今囘は名無しの権兵衛
 キリスト教が惡いとは申し上げません。でも、カトリック教會主義といふ、この恐ろしい存在だけは氣をつけてください。ローマ帝國以來、他國・他宗教・異教徒を不幸のどん底に陥れてきました。

 これを理解してゐれば、今囘の隠れキリシタン(いつから潜伏キリシタンなどと云ふ言葉になつたのでせう? 初めて聞きました。これも、カトリック教會主義のなせる業でせうか?)が世界何んとかになつたのなど、喜べるどころか、いかにおぞましいものかがすぐにわかります。

 秀吉は、キリスト教を迫害したのですか?違ひます。

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