命の手紙 119(皇紀弐千六百七十八年八月十日 四)

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 父の六十二歳の時の話です。つづきです。今囘は平穏な内容です。次囘がまたすごい。
 耐震補強工事の初期の頃でした。手探りで徹夜で見積書をつくった沖縄の「浦添 うらそえ 大橋耐震補強工事」を受注しました。大阪の一部上場企業の課長だったTを引き抜き、九州支店長に据えて浦添大橋の現場に派遣しました。Tとは今も文書の往復があります。

 ちょうど沖縄モノレールの工事が始まろうとしていた頃でした。電車がないので、沖縄の人たちはみなさん"酔っぱらい運転"でしたが、今はモノレールかな?

 沖縄の米軍キャンプの正門前の店で昼食にビフテキを食べました。大きさに驚いた。その日は夕食を抜きました。

 「千代 せんだい」といいうバーらしき店がボクたちの「たまり場」でした。ママさんの名前が「千代 ちよ」なのだそうです。ボクたちが行くと必ず「〇〇チャンプル」が出ました。安い!! この連中は金がないと見破られていたのでしょう。

 那覇空港には検疫所があります。赤芋 あかいも(サツマイモ)は植えると害虫が繁殖する恐れがあるので検疫所で検査をしているのを知らなかったので、道ばたで売っているのを買い、田辺宅で食べました。次に行ったときに聞くと、「植えるのは×」で、「食べるのは〇」だそうです。 つづく

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このページは、宝徳 健が2018年8月10日 14:11に書いたブログ記事です。

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