命の手紙 123(皇紀弐千六百七十八年八月二十六日 七)

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KANO1931海の向こうの甲子園

のつづきです。
 近藤は日本人のみを贔屓にすることなく、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、韋駄天の如く足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームを作り上げていく。また、かつて近藤画始動し、その指導に委縮した松山商業と比べ、嘉農の選手たちがのびのびとプレーする姿は近藤自身を生長させ、チームに対する愛情を深めていくのだった。

 少年たちは日本語で教育を受け、日本語を話した。しかし街や仲間内では台湾語を話した。日本の統治下にある街には日本語と漢語があふれ、近代化整備が進みつつあり、活気に満ちていた。一方で、農村は治水対策が不十分で、台風のたびに甚大な被害を受けていた。 つづく

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このページは、宝徳 健が2018年8月26日 13:32に書いたブログ記事です。

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