ホロコーストの本當の意味(皇紀弐千六百七十八年九月二十六日 六)

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 ホロコーストといふと、ナチスのユダヤ人大虐殺のことを云ふケースが(といふかほとんど)ですが、本來の意味は違ふのに、なんでららうと、ずつと思ってきました。

 旧約聖書を讀んだことがある方ならご存知ですよね(旧約聖書と云ふ言葉自體がキリスト教のおごりですが。これについては後日)。
 ホロコースト云ふのは、ユダヤ教において、神の心を和ませるために、祭壇の薪の上に供物をのせて燒き、その煙を神に届かせると言ふ儀式のことです。

 もつと云ふと旧約聖書の創成期にその記述があります。元々旧約聖書と云ふのは、アブラハムを祖先とするユダヤ教のリーダーの物語です。アブラハムはある日、ヤハウェ(エホバ)から「一人息子のイサクを山の上でホロコーストしろ」といふ命令を受け、指示通りにイサクを祭壇の上で殺して燃やそうとしました。すると、神は、「やめろやめろ、お前を試したのだ。お前の信仰の深さはよくわかつた。愛する一人の息子さえ疑問ももたずに犠牲にする覚悟があるとはあっぱれだ」といふ、日本の神樣では絶對にしないようなおろかなことを神が言ったこといふ有名な話があります。

 だから「ホロコースト」とは「身内でも犠牲にする精神」を意味します。

 さて、何故、私が今日、わざわざこのテーマを書いたか。我が國の歴史の中でもこのホロコーストがとても大切な要素となります。

 そして、このシリーズに最後には、なぜ、ナチス大虐殺がホロコーストと呼ばれたかも解説します。

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このページは、宝徳 健が2018年9月25日 22:24に書いたブログ記事です。

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