宇美八幡宮(皇紀弐千六百七十八年九月三十日 十一)

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 先日、友人に、太宰府天満宮に連れて行つてもらつた後、空港まで送ってくれるといふことで、その途中にある、宇美八幡宮にも立ち寄りました。私は、初めてだと思つてゐたのですが、「何ばいいよるとね。髙校時代に遠足で來たらうもんん」と。覺へてゐません(涙)。すみません。

 神功皇后と應仁天皇ですね。神功皇后は、敗戰前は天皇の一代に數へられてゐたのですが、朝鮮を攻めたといふことで、敗戰後、天皇から外れました。歴史修正主義とすぐに騒ぐメディアは、この歴史修正には一切言及しません。


 左から三番目の寫眞は、神功皇后は身ごもったまま應仁天皇を三韓征伐に向かひ帰國されてからお産みになられたので、この神社は、安産・子育ての神となつてゐます。生まれた子供の名前を石に書いてこの神社み治めます。

 やつた~、大吉。
 三韓征伐

 仲哀天皇と神功皇后は、ヤマトの國體シラスにではな、人々を支配するウシハクをしていました。なので討伐のために、九州へと行幸しました。香椎宮に入った神功皇后は、「西にある国を攻めよ」との神託をさずかります。しかし、「西に國などみえない」と神託を信じなかった仲哀天皇は、神罰によって急逝します。残された皇后は神託通り軍を率いて渡海します。勝利を収めた皇后は、帰国し、應仁天皇を産みます。

 さて、これだけでは、神功皇后を理解したことにはなりません。かつてこのブログで書いた、神功皇后の記事を次の記事に載せ、そして、數日間連載します。




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このページは、宝徳 健が2018年9月30日 09:46に書いたブログ記事です。

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