高山正之先生の記事 2(皇紀弐千六百七十八年九月二十九日 參)

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 つづきです。
 最近、保阪正康が、東条英機のことをぼろくそに書いていた。司馬はそういう日本人らしくない韓国の対日批判みたいな品のない描写に市民権を与えてしまったように思う。

 連載が終わったころは、羽田の記者クラブにいた。航空会社を回っていたら日本航空の幹部に聯合艦隊の砲術長、安保清種の孫がいた。東郷平八郎の傍にいてバルチック艦隊への集中砲撃を指揮した人だ。

 全日空には、司馬が罵り倒した伊地知幸介の孫が経営管理室長でいた。二人から祖父の描き方についての感想を聞いたが、異論がそれこそ山とあった。

 この辺のことを司馬に直に聞きたいと思っていたら、いつの間にか産經から朝日に移って紀行ものを始めていた。

 そのころから妙に朝日色が出てきた。「轢き殺していけ」発言もそのころだ。 つづく

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このページは、宝徳 健が2018年9月28日 20:17に書いたブログ記事です。

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