高山正之先生の記事 3(皇紀弐千六百七十八年九月三十日 弐)

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 昨日から書き始めた「新・古事記」は一旦、停止とします。今、面白いことを研究していて、それと併せた、「寳德古事記」を書こうと思つてゐます。

 誤解なきやうに申し上げますが、私は若いころ、司馬遼太郎、山崎豊子、吉村昭、阿川弘之、城山三郎は、魅せられたやうに讀みました。でも、眞理・眞實・事實を自分の中で深めていくと、「なんだよ、騙されたいたんだ」と、しばらく自分自身の學んできたことが崩壊してしまひました。彼らは事實をゆがめます。許されないほど。

 司馬遼太郎の「故郷忘じがたく」など、心が震えるぐらいの感動で讀みました。見事に裏切られました。焼き物で有名な 十四代沈壽冠のことを書いたものですが、彼は、朝鮮人が故に日本でいじめられたと司馬の作品ではなつてゐます。ある人が調べたところ、沈壽官は、どうしようもない不良だったといふことです。このやうな嘘が司馬作品には、いくつもあります。司馬遼太郎で歴史を學んだ人は危險です。メディアは今でも司馬遼太郎と賛美します。狂つてますね。

 高山先生、よくぞ書いてくださいました。週刊新潮も大したものです(笑)。
 司馬は終戦前、満洲から戻り栃木県佐野市の戦車隊基地にいた。米軍上陸の噂もあった。その際は佐野から下って水際でくい止めよと大本営参謀が言った。

 しかし道は避難の人で溢れている。どうするのかとという問いに参謀は「轢き殺していけ」と言った。

 朝日が創ってきた「残忍日本軍」の将校ぴったりの物言いだが、でも少しヘンだと思った。

 米軍が上陸してくる、東京からみんなが逃げ出してくるというときに佐野にまで戦車隊がのんびり居残っていた。さあぼちぼち出動するか、なんて状況がありえるのだろうか。

 現に戦車隊の仲間の誰もその参謀発言を聞いていない。なぜ、司馬が本田勝一の真似をしたのだろう。 つづく

 

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このページは、宝徳 健が2018年9月29日 21:19に書いたブログ記事です。

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