福翁百話 2(皇紀弐千六百七十八年十月七日 七)

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 かつてある塾生(慶応義塾大学卒業生)が、「今は、それ(學問のすすめや福翁自傳も讀まない學生がほとんど)が、普通です」と云はれました。理念なき學問です。

 異常なマジョリティを普通を云ふので世の中がおかしくなります。

 「今は、慶應義塾を卒業しても學問のすすめも福翁自傳さへも讀まない」が正解です。これがマインドフルネス(立ち位置を知る)ことです。

 しかし、久しぶりに福翁百話を讀み返すと面白い。

 さあ第一話です。二囘にわけて書きます。

 前回書きましたが、前書きが明治二十九年二月十五日です。教育勅語が明治三十年十月三十日なので、約一年前。そろそろ精神文化の破壊が起きてゐるころです。
人間の安心
人生は戯(たはむ)れと知りつつ戯れよ

 宇宙の間にわが地球が存在するのは、大海に芥子(けし)の実が一粒浮かぶようなものだとはいうまでもない。われわれが人間と称する動物は、この芥子粒の上に生まれ、また死んでいくものであるが、生まれても生まれた理由を知らないし、死んでも死んだ理由も知らない。どこから生まれて来たかも知らず、死んでどこへ行くのかも知らない。

 二メートルにも足りない身体で、わずか百年の寿命を得るのも難しい。塵や埃のようともいえるし、まるで水たまりに浮き沈みするボウフラのようだともいえる。

 カゲロウは朝に生まれて夕方に死す、というが、それでも人間の寿命に比べてそれほどの差異はない。蚤と蟻が背比べをしても、大きな象の眼から見れば大小の違いはなく、一秒の早いおそいを争っても、百年単位で見れば、その差を論ずる意味もない。

 それで、無限な宇宙規模の考え方でみると、太陽や月でさえも小さく、地球も微々たるものだ。まして人間ごときは、無知無力でみすぼらしいウジ虫同様の小動物であって、稲妻が光るほどの瞬間、偶然にこの世に呼吸して眠り食事をして、喜怒哀楽を感じたところで、一瞬の夢のようにたちまち消えて跡形もなくなるだけだ。 つづく

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このページは、宝徳 健が2018年10月 7日 07:58に書いたブログ記事です。

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