巧詐不如拙誠 2(皇紀弐千六百七十八年十月八日 六)

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 つづきです。

 私が樂羊だつたら、國家のためなら息子は犠牲にするでせう。私と息子が逆の立場でも、私は、息子にそれを望みます。ただし、それは、世界で唯一歴史が連續した 人間社會の奇跡の國 日本のためです。天子樣である天皇陛下のためです。

 支那人は、なぜこんなことをするか。


 殷の暴君 紂王の時代のことです。紂王の妃があの悪名髙き 妲己(だっき)です。後に周の國を建國する 武王の父 文王(支那の古典では理想の聖人の一人です)が、讒言により 紂王に幽閉されました。七年半です。 文王の長男は、紂王に誤解を解きに行きました。でも、妲己にはめられて、殺されます。紂王は、文王の忠誠を確かめるといふ名目で、殺した息子の肉を文王に送ります。

 文王は氣づいてゐましたが、おいしいおいしいと涙を流して喜びながら食べます(喜んだふりをもちろんしてゐますが)。 なぜならば、それをしないと殺されるからです。紂王の使ひが、嘘の報告を紂王にしたら、即座に文王は殺されます。

 樂羊も、部下の中に、王の見張りがいます。息子のために戰爭に敗けたなどといふことになると、息子もろとも王に殺されます。

 支那とは、さう云ふ國です。

 樂羊の場合も、最初は、「忠誠心が高い」と王は喜びますが、重臣から「我が子の肉まで食らふ男です、どんな相手の肉も喰らひます」と讒言され、恩賞は與へたものの、疑惑を深めます。

 韓非子はこれを、巧詐の例としてゐますが、支那の古典は氣をつけて讀まなくてはなりません。

 なんて、素人の私が勝手に解釈してゐますが、韓非子はそんなのが多い。

 では、次回は、拙誠の例で支那の古典の裏側を樂しんでみませう。

【参考:妲己 悪女列傳のHPを私なりに編集 http://akj.u-bm.net/dakki/】

 自分の力に驕るきらいはあったものの、その聡明さと力強さは30代続く殷の帝にふさわしい能力の持ち主であった名君と呼びに足る紂王が暴君へと変貌したきっかけが、殷によって滅ぼされた有蘇氏から献上された妲己でした。

 
  十代後半であるにも関わらず物怖じせず、媚びもせず、それでいて妖しい魅力をもっていた妲己に紂王はたちまち虜になりました。彼女の気を引くために紂王は金銀財宝を与えるのはもちろんのこと、庭に砂の離宮を建てると、そこに作った池を酒で満たし木々には肉を吊るして淫靡な音楽を流し続けます。そして多くの男女が裸で思うがままに戯れると、それを見て自分たちも紂王と妲己は愛欲に溺れたのでした。これが酒池肉林です。

 二人は奴隷に剣を持たせて殺し合いをさせるという遊びにも夢中になりました。しかしほどなくしてそれに飽きると今度はより真剣味の増す兵士同士を殺し合いへとエスカレートしていきます。酒池肉林に趣味の悪い享楽、当然ながら民の不満は募ります。しかし紂王はその民を捕らえ、処刑していきます。その処刑方法で有名なのが蟇盆と炮烙。

 蟇盆は穴の中に毒蛇やサソリを入れその中に突き落とすというもの。炮烙は橋のように横たわっている銅の柱に油を塗り、その下にある薪を焚く。そこを罪人に渡らせるというもの。渡りきったら無罪放免ではあるものの、熱された柱と油で滑るせいで渡れるはずもなく、柱に抱きつき焼け焦げる、そして力尽き火の海へと落下するという具合でした。それを見て紂王と妲己は抱き合って笑い転げたそうです。
 見かねた賢臣が諌言すれば処刑して心の臓をえぐり、どうにかして二人の仲を引き裂こうと画策したものは処刑され酒池肉林の一部となったといいます。





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このページは、宝徳 健が2018年10月 8日 09:23に書いたブログ記事です。

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