源氏物語 87(皇紀弐千六百七十八年十二月三日 弐)

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 ブログ書いてゐると氣持ちがいい!!! 仕事も進みそうです。結構、重たい仕事ばかりで、それが氣になつて、ブログの方に頭がいかないといふ状態が續いてゐました。でも、だめですね。結局ボーとする時間が多くなるだけ。かうやつて書いてゐると、腦が活性化してきます。それに、一つの仕事が終はつて、次の仕事に移るとき、頭の切り替へが大變です。別の會社の仕事をするわけですから。苦しくてたまらないのですがその処方箋がブログです。そこに切り替へられるかどうか。

 今日は、徹夜します。仕事で。「また、無理をする」と多方面から聞こえてきそうですが(笑)。たまにはいいんです。メリハリさえついてゐれば。ブログも書きます。リズムよく。

 さて、前囘、「源氏物語は本當は、美しい大和言葉で書かれてゐるさうです。外來語である音讀みの漢字熟語はほとんどないさうです。古い寫本をみてもほとんどがひらがなださうです。」と書きました。では、現代人の私達が今、讀んでいる源氏物語の本文はどうやつて確立されていつたのでせうか。

 藤原定家の父、藤原俊成(しゅんぜい)が、名言を残してゐます。

源氏見ざる歌詠みは、遺恨(よくないといるいみ)のことなり

 この俊成を通して、源氏物語を學んだ弟子が二人ゐました。一人は息子の藤原定家です。もう一人が源光行(みなもとみつゆき)です。彼は、討幕を悲願とする後鳥羽上皇と、鎌倉幕府の間で「ぬえ」のやうに立ち囘り、二重スパイを疑われ、承継寸前までいつた奇怪な人物です。

 この源光行が、息子の源親行(ちかゆき)と共に本文校訂した源氏物語を「河内本」と云ひます。尾張德川家に傳はりました。

 定家が本文校訂したものが「青表紙本」です。次囘からこれらを解説します。 

 では、つづきです。光源氏が明石に流れていつた後の藤壺の心境はいかに。
 藤壺にしてみれば、光源氏の不運は、まず自分との密通から始まつてゐると思はざるをえません。でも、事情が世間に知れて、東宮(皇太子 藤壺と光源氏の息子 桐壺と藤壺のこどもとなつてゐますか)に災いが及んだらと、何よりもこれが心配です。

 「許してください」

 すべてを語り合へないもどかしさを、心中さりげなく、こまやかに綴つて返すよりすべがありません。

 朧月夜もあからさまに光源氏への思ひを綴ることが出来ません。須磨に届く手紙自體が、侍女の手紙の中に入れてあり、むしろ侍女の手紙の文面が朧月夜の一途な戀心を傳へて光源氏の涙をさそひます。 つづく

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このページは、宝徳 健が2018年12月 2日 09:02に書いたブログ記事です。

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